岩亀楼
安政6年(1859)6月2日、日米通商条約によって横浜が開港され、それまで漁村だった「横浜村」が変貌することになった。
外国人居留地が設けられ多くの外国人が住むことになると、外国人のための遊郭が作られた。 それが港崎(みよざき)町である。(現在の横浜公園のあたり)。幕府が遊廓の設置を認めたのは、駐留外国人と日本人の間にトラブル発生を防ぐ意味合いがあったと考えられている。この遊里は吉原を真似て作られたといわれ、遊郭の中で特に目立ったのが、岩亀楼と五十鈴楼であったようです。
(岩亀楼は品川宿「岩槻楼」の主人、岩槻屋佐吉の経営する遊郭)
岩亀楼の建物はとりわけ豪華で 「美那登能波奈(みなとのはな)横浜奇談」では、岩亀楼のことについて「岩亀楼の家造りは、蜃気楼のごとくにして、あたかも龍界にひとしく、文月の燈籠、葉月の俄踊、もん日もん日の賑わひ、目をおどろかし、素見ぞめきは和人、異人打ちまじりて、昼夜を分かず」 と表現している。昼間には、建物の見学を希望する人からお金を取って建物の内部を案内したりもしたという。
大変に繁栄していたことが窺える。贅を尽くした様子は2代目歌川広重の錦絵として残っている。
遊郭焼失:この岩亀楼を含め港崎遊郭は、慶応2年(1866)の火災により焼失し、現在、港崎の名前も遊廓もない。
横浜公園の一角には、岩亀楼の石燈籠がおかれているのみ。
滝 和亭(たき かてい)
天保3年1月3日(1832年2月4日) - 明治34年(1901年)9月28日)
南画家。江戸生まれ。本姓田中。幼名長吉、邦之助。名は謙。字は子直、別号は水山、翠山、蘭田。
大岡雲峰に師事したのち、長崎に遊学する。鉄翁祖門に学び、陳逸舟などの清国人とも交友。安政元年(1854年)江戸に帰る。幕府に仕え、その後諸国を歴遊。ウィーン万国博覧会、シカゴ万国博覧会に出品し、内国勧業博覧会では毎回受賞。
明治26年(1893年)帝室技芸員となる。美学者の滝精一は息子。過程美術史家で美術雑誌『国華』の主幹瀧精一(1873~1945)の父。法隆寺金堂壁画模写に当った荒井寛方の師でもある。
寺門静軒(てらかど せいけん) 寛政8年(1796年)~ 慶応4年(1888年):幕末の儒学者。諱は良。字は子温。通称は弥五左衛門。克己・蓮湖という号もある。水戸藩御家人の子として、江戸小石川水戸藩邸内に生まれる。折衷学派山本緑陰の門人となる。駒込で塾を開く。
天保2年(1831年)より、江戸の風俗を記した『江戸繁昌記』を執筆。ベストセラーとなるが風俗を乱すものとして江戸追放となる。林述斎の讒言によって江戸幕府によって出版差し止めになったにも関わらず、天保13年(1843年)に第5篇まで書いたことが咎められて、「武士奉公御構」(奉公禁止)となる。以後、自らを「無用之人」と称して各地を流転する。やがて武蔵国妻沼(現在の埼玉県熊谷市)に私塾を開いて晩年を過ごした。他の著作として「静軒一家言」「静軒慢筆」「新潟繁盛記」など。
谷 文晁(たに ぶんちょう)
宝暦13年9月9日(1763年10月15日)~天保11年12月14日(1841年1月6日)
江戸時代後期の日本の南画家、文晁派の祖。
名は正安。字は文晁のほか文朝、子方。通称は文五郎。号は写山楼、画学斎、無二、一恕、文阿弥。
田安家の家臣で漢詩人の谷麓谷(ろこく)の子として江戸下谷根岸に生まれた。10歳の頃狩野派の加藤文麗に学び、19歳の頃中山高陽の弟子 渡辺玄対に師事した。鈴木芙蓉にも影響を受ける。北山寒巌からは北画(浙派・院体画)を修めた。
大坂の木村兼葭堂のところでは、釧雲泉より南画の指南を受け、長崎でも張秋谷より南画の技法を習得した。
古画の模写と写生を基礎に南画・北画・洋風画などを加えた独自の画風を生み出し、関東文人画を確立したとされる。
田安家に仕えたが、田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、近習となり、定信が亡くなるまでこの関係は続いた。
寛政5年(1798年)には定信の江戸湾巡航に随行し、『公余探勝図』を制作する。また定信の命を受けた図録集「集古十種」の編纂に従事し、古書画や古宝物の蒐集とその模写を描いた。文晁は白河藩小峰城三の丸にアトリエ「小峰山房」を構えていた。白河だるま市のだるまは文晁が描いた図案をモデルにしたとされている。画塾写山楼を構え、渡辺崋山・立原杏所など多くの門人を擁した。すぐれた画家を輩出し画壇の大御所的存在であった。
 |
川田甕江(剛)(かわた おうこう)
(天保元年(1830)~明治29年(1896 )
幕末の松山(板倉)藩士。、幕末・明治初期を代表する漢学者。漢文学の泰斗として名を成し有終館会頭。
維新後宮内省諸陵頭、博物館理事、貴族院議員、のちに文学博士、学士院会員。
備中高梁出身で、名は剛(山田方谷から剛毅の剛の字を名前として与えられた)字は毅卿、号を甕江と称す。
初め山田方谷に学び、その後江戸で佐藤一斎門下で学問を修めた後、藩校有終館で教壇に立った。
藩の危難に際して山田方谷とともに苦心して対処した。
江戸藩邸で働いていた川田もまた藩主板倉勝静と供に大坂城にいたが、敗戦を受けて熊田らと供に行動し玉島にいた。
慶応4年(1868)、事実上幕府首相の地位にあった藩主板倉勝静は徳川慶喜とともに大阪城にあったが、藩老熊田恰率いる松山藩軍も藩主護衛の任に就いていた。
鳥羽伏見の戦いに敗戦し、慶喜に従って板倉勝静が江戸に下ると、熊田恰と松山藩兵百五十名は海路備中に戻り玉島港より上陸しようとするが、備前藩兵により包囲されてしまう。
松山藩では山田方谷が藩を救うために必死に恭順を演出していた。
国許からの示唆を受けた熊田恰は、部下の助命と藩の安泰、戦火の回避を嘆願して西爽亭次の間にて自刃した。
これにより備中松山藩は藩主勝静が箱館まで転戦して新政府に対し徹底抗戦していたにも関わらず、藩も保全され、玉島も高梁も戦火から免れた。
西爽亭には熊田恰の残した嘆願書(川田甕江の下書き)の写しも残されている。歌人川田順は川田甕江の子である。川田甕江生家は綿廻船問屋で、江戸中期に建設された店舗大國屋が今もその姿を留めている。川田甕江はこの家に生まれた。
新岡旭宇(にいおか きょくう)
天保5年(1834)~ 明治37年(1904 71才。書家。名を久頼、幼名を虎八郎、字 公徴、通称 衛。号は旭宇・大海・静斉・玉翁。法名 天爵居士 墓は上野寛永寺勧善院。代々陸奥弘前藩士で書家新岡九郎兵衛の男。藩校稽古館で蘭学を修め、上田流書家工藤彦四郎に書法を学ぶ。弘化四年(1847)江戸に出て、寛永寺春性院に寄食し、衆僧に書を教授。
維新後は中国を漫遊し、晋の王羲之の書風を学び草書と仮名で名声を得た。明治17年に帰国後は、下谷根岸に住んだ。著作に「筆法初伝」「仮字帖(ちょう)」など。
西田春耕(にしだ しゅんこう)
弘化2年~明治43年9月10日(1845-1910)66歳。日本画家。名、峻。字、子徳。通称、俊蔵。東京入船出身。号、西圃のち春耕・腐翁。父は久須美佐渡守祐雋の家臣西田良右衛門高厚。魚住荊石・高久隆古・山本琴谷に師事。福田半香(ふくだはんこう:1804-1864)の塾幹部となる。半香没後、北越(柏崎)に赴き藍沢南城(あいざわなんじょう:1792-1860)に漢学を学ぶ。2年後江戸に帰り独立。南宋画を得意とし、また俳句を好んだ。
作品:「五百大阿羅漢図」、「人生快楽十二図」、「耶蘇昇天図」、「電気神女図」。
俳句集「句集『空尊集」。66歳。口嗜小史:西田春耕 著
田中玄蕃(10代)(たなか げんば)
弘化2年~昭和11年(1845~1936)92歳
海上郡銚子の豪商。幼名は亀次郎、1859年元服して謙蔵、諱 貞穆(さだあつ)。号は 春耕。
幼くして母をなくす。兄直衛と鹿島の吉川天浦(宮本茶村の門人で吉川3兄弟(天浦、君浦、松浦)の門に入る。後に天浦が無くなると吉川君浦(銚子新生村婿入りして宮内君浦)を師とした。
1862年文久2年、長男直衛は20歳の若さで、はしかで亡くなる。
1864年天狗党争乱の鎮圧に兵糧運送方を務める。
1864年元治元年高田村「さだ」と結婚。(仲人は宮内君浦)(注)
1868年家督を継ぎ御用達取締。直衛と改名。
1874年千葉県海上郡学区取締、明治10年(1877)千葉県会代議人。明治20年海防費献納により黄綬褒章。
1900年ヒゲタ醤油宮内庁御用達。総武鉄道、銚子遊覧鉄道、電話交換事業など開業に尽力。
1914年大正3年、ヒゲタ醤油とジガミサ醤油とカギダイ醤油を合同して銚子醤油合資会社を設立。取締役社長。
(注)田中謙蔵の妻は海上郡高田村宮内清右衛門の長女「さだ」だが潮来の考証学者宮本茶村の孫である。
仲人の宮内君浦は謙蔵の生涯の師でありるが、宮本茶村の門下生である。茶村がご縁の縁組と云えないだろうか。
なお「大日本国語辞典」の著者「松井簡治」は君浦の実子である。
波止場遠景
データなし
|