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書 簡 集
Ver-20170223

伊能忠敬書簡(伊能七左衛門宛)(宮内敏所蔵)
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御安慮可被下候
一、深川家作浅草江引取候儀高橋氏より
度々伺立候得共当時相叶不申候旨
御用先江申来候依之是迄ノ家作ヲ
修覆致し五六年も其余も住居致候様ニ
致し度候兼而御相談申置度候第一ニ
座敷屋根葺候而ヒサシ庇等手入又ハ葺直し
坐敷ノカベ壁ハ上塗も致度候瓦下も漏候所ハ
直し囲ノ板ヘイ塀もソバノ側松板なりとも相用
仕立申度候屋根ノ上ノ火ノ見もザットモ
手入申度候加納屋存生ニ 三十間堀
長岡屋金兵衛与申諸普請引取人江
家作浅草ヘ引取候儀かけ合置候加納屋
物故ニ而も右修覆かけ合之儀ハ不苦候某許よりご相談
被下候而も宜候右永岡屋金兵衛ハ我等□
弟子同前ニ而ワル悪気も相見不申候外ニ
御年寄諸職人実体ナルモヘ候ハバ
階子下の二畳ノ間ヲ四畳ノ間并ニ押入付ニ
   
夫江被仰付候而も宜候兼而御考被成候
致度候栄蔵女房ヲ引取此上留主ハバ
様候ニも入用に候左様致得ハ二階ヘ上ル
ハシゴ階子ノ付所ヲか替ヘ候事ニ存候座敷トコ床ノ
脇ヲ押入ニ致し雪隠ヲ坐敷縁より相回候様
付候而申度候彼此一同ニ者出来申間敷候而
成たけ段々ニ御仕立可被下れ、我等共帰府
四月中旬カ下旬と存候其御心得ニ而御作事
可被下候以上


閏二月二十三日     伊能勘解由

伊能七左衛門 様

猶々御家内御一同江宜御伝達可被下候
猶帰府ニ可得御意候以上
一 二畳の間押入ニ致候儀手ヲモリ重候ハバ此度ハ御見合
可下候重而何連ニも可致候
  
 解読 伊能忠敬記念館 学芸員 紺野浩幸 氏  

 伊能忠敬書簡の考察 
   全国測量のため、江戸深川宅は留守勝ちであったため、その間の管理を最も近い縁戚関係あった
伊能七左衛門に依頼していたようである。
この書簡は伊能忠敬が伊能七左衛門に旅先から出した書状である。
書簡の日付は閏2月23日とあるが、状況より 文化8年閏2月(1811年)と考えれる。
(近傍の寛政4年閏2月は翁47歳でまだ隠居していない)

文化8年のこの時期は第七次(九州第一次)測量の帰路に当たる。
文化8年1月19日小倉を発ち九州より帰路に着く。
下関を経て中国地方の内陸を測量、閏2月21日新見町着宿、同22日新見町再宿、同22日新見出立、正田村・
石蟹村・井倉村を経て乗船、高梁川沿いに松山城下本町着、止宿平松与七郎。同23日同所に再宿している。
書簡はこの日に書かれたものと思われる。測量日記によれば「24日、朝微雨。同所逗留。
松山領割元池上直左衛門、下町年寄定十郎出る。割元庄屋中島益治も出る。
此夜宵大曇、五ツ後に少晴る。測量・江戸状を出す」とある。
(注)新見町(現岡山県新見市)松山城(備中松山城・現岡山県高梁市)


伊能源六(景文):伊能七左衛門書簡
(宮内克太郎宛)
(濱宅所蔵資料)
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伊能節軒の逝去連絡書簡 (明治19年3月19日逝去

  伊能源六(景文):伊能三郎衛門家14代である:節軒は景文からみて義父にあたる。
  伊能七左衛門:
伊能七左衛門成徳と思われる。
 
以?使申上候 陳ば伊能茂左衛門
父節軒儀病患の処、今 十九日午前八時逝去致候 葬式の儀は明後二十二日午後二時相営候ニ付、
此段及御報告候 敬首(具)
    三月十九日      伊 能 源 六
                同 七左衛門
    宮内克太郎 様
                      *陳れば・・・のぶれば、   *御報告ニ及び候
  解読:古文書研究家 伊藤栄子氏
  伊能節軒について
楫取魚彦を出した伊能茂左衛門家10代当主、景晴、号を節軒という。幕末から明治にかけて佐原の最有力者。
伊能三郎右衛門家の再興
伊能茂左衛門節軒は自分の次女
いくに、姻戚に当たる上総武射郡屋形村(山武郡横芝町)海保長左衛門の三男景文(通称源六)を迎えて、忠誨(伊能忠敬の嫡孫)の後嗣とし、伊能三郎右衛門家を再興した。
景文に男子なく景文の後妻ひさとの長女に一族伊能七左衛門成徳の次男端美(家督相続後三郎右衛門)を婿養子とし現在に至る。
 


伊能端美書簡1:(宮内克太郎宛)
(濱宅所蔵資料)
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甚ダ恐入候得共、別封御序の節
ニて宜敷候間、今川小□へ御届被下
度願上候

其後は御無音ニ打絶候段
平ニ御免被下度、残暑未ダ
不退候処、先以愈御清適奉
賀候 随て拙家一同無異ニ
罷在候間、乍憚御休神被下度候
然ば□垂事件落着ニ付、
御挨拶として羽織地御投(ママ)恵(ママ)
被下難有奉万謝候 聊カ
尽力にとて如斯御心配
ヲ蒙り候ては実ニ恐縮の至
りに候 乍然折角の御恩
召ニ叛キ候も本意ナラズ候
間、頂戴仕候 又仏前へ御丁
寧ニ何よりの御品被下、是又難
有親共よりも宜敷御礼申上候
書外拝願万々御礼申上候 乍
末御叔父様御始皆々様へ宜
敷御伝声願上候 早々百拝

九月四日     伊能端(た)美(み)
尊兄上様
    閣下
   
再伸、此度御開店被遊候趣、定
メテ御繁栄の事と奉存候 扨て
本年は稀レナル大風雨、引続キ目下
利根川筋は堤防所々危険の場
所有之、今以昼夜尽力致居、此とニ
百十日如何と心配候処、先無難
ニテ一安心候も今ニ減水不致、困
入候 新聞紙上ニテハ御地大川筋
も非常の増水の趣、諸国洪水の
為ニ哉、実ニ又景気当地は米価
今ニ同様、然シ世間の説ニハ今度
二百十日無難ニ候得ば、先本年
は豊作ナラント農家は無難ヲ
祈居候由、亦御地流行病は如何
ニ御坐候哉、当地は更ニ無之候間、
御安心被下度、時節柄御養生
専一と奉存候 右申上度如
斯ニ御坐候

東京市神田区三崎町
弐丁目一番地
宮内克太郎 様
平安要用

香取郡佐原町
伊能端美
解読:古文書研究家 伊藤栄子氏

 
伊能七左衛門書簡1
克太郎・多恵の長男誕生連絡(濱宅所蔵資料)
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   高田村 宮内秀三様  貴下 佐原村伊能七左衛門
以使申上候 先以甚寒の節 御座候処、御渾家様被為揃
弥御安易ニ可被成御起居、大悦の至ニ奉存候
 然バおたえ儀今暁三時五拾分安産男子出生、
母子共大丈夫ニ肥立申候 御安堵可被下候
名前の儀ハ至急御名付御遣し可被下候
 先は不取敢以使申上候 皆々様へも宜敷
御芳声奉希上候 書外拝
願可申上候 頓首
明治十三年一月二十九日   伊能七左衛門
宮内秀三 様

二白  野尻、滑川様へも別紙 可申上筈ニ御座候得共、
希家様より宜敷御鶴声奉希上候也
明治十三年一月二十九日


*先以・・・・・・先ず以って

*以使・・・・・・使を以って

*御渾家・・・・全家

*可被成御起居・・御起居ならるべく







*二白・・・・・・・二伸に同じ

 (注) 伊能七左衛門とは:多恵の父成徳か?、「おたえ(多恵)」とは秀三の長男克太郎の配である。
__出生男子は秀雄と命名された。
野尻滑川様とは:秀三の配やすの実家滑川藤兵衛家 
解読:古文書研究家 伊藤栄子氏


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徳川斉昭(宮本高重宛)書状(潮来町資料より)

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宮本茶村(水雲)(宮内秀三宛)書簡
(濱宅所蔵資料)
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解読:古文書研究家  伊藤栄子氏
下記のような関係があり、茶村は潮来から舟で高田(銚子市)へ頻繁に来ていたと思われる。
宮本水雲(水雲は茶村の晩年の号である)

秀三の母は茶村の姉、秀三の兄定彦の配は茶村の長女である。
茶村は秀三の叔父であり漢学の師であった。秀三は幼少より漢詩を学ぶ。号を友鷗という。


宮本千蔵書簡(宮内秀三宛)(濱宅所蔵資料)
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  老婆帰□(むし)扨々無拠事ニ御坐候
春□(むし)被参御地の様子委細承知安心致 異人長逗留迷惑のものに御座候
○番脇指御拵直し誠ニ無益ニ御座候 拵賃の外壱分も余計出候ハゞ、切レ候刀
求不(カ)申存候 夫より御所持の刀、脇指類 中身計の分、ザットモ為御拵仕居候ては
如何、切レ物にても柄拵無之候ては用ニ立不申候 小道具も大抵は御合、
余た間ニ合可申歟、思召も候ハゞ態々為御持被遣候様可被成候 好序有之候故、
早速申付指上可申候 何(いずれ)も病中早々 以上
二月十三日
状中御承知も候ハゞ、有合お小道具類不残御遣可被成候
戦場ニは別に短刀専用の御座候 拵は水戸表へ申付、格別下直ニ
                                                                         御座候
秀三様             千蔵
用書
 
 

解読:古文書研究家伊藤栄子氏


(注)
千蔵:宮本茶村長男は徳川斉昭の恩を
深く受ける。


異人長逗留の異人とは誰?



宮内猪三郎の客遊詞草にみる千蔵 ・・・・➡



 

伊能節軒書簡(宮内秀三宛)① (濱宅所蔵資料)
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 解読:古文書研究家 伊藤栄子氏
    (注)西田春耕(にしだしゅんこう)とは 当HP扇編に掲載している「春耕」である。
弘化2年~明治43年9月10日(1845-1910)日本画家。
名は峻、字名は子徳。通称を俊蔵という。号は西圃のち春耕。
魚住荊石・高久隆古・山本琴谷に師事。
春耕の著作「口嗜小史」に差出人である伊能節軒についての記述があるので紹介したい。(左図)・➡

伊能茂左衛門(節軒)の書状に「カキガラ町永久橋滑川御店ニテ」とあるが、滑川御店とは海上郡野尻村の滑川藤兵衛家の江戸店のことである。
節軒と滑川家の繋がりだが節軒の長女の配は滑川家からの婿養子で茂左衛門を継だ。
宛て先の宮内秀三の配は同じく滑川家から嫁入りしており、この時期の茂左衛門とは弟姉の関係にある。
因みに節軒の次女は海保長左衛門家から婿を取り伊能三郎右衛門(伊能忠敬の)を再興した。
 
春耕の著作「口嗜小史」の一節
(国立国会図書館ディジタルコレクション)



伊能節軒書簡(宮内克太郎宛)⓶(濱宅所蔵資料)
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解読:古文書研究家 伊藤栄子氏
 (注)勝太郎とは克太郎のことで宮内秀三の長男である



伊能節軒書簡(宮内克太郎宛)④(濱宅所蔵資料)
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 解読:古文書研究家 伊藤栄子氏



 伊能節軒書簡(宮内秀三宛)③
(濱宅所蔵資料)
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解読:古文書研究家 伊藤栄子氏



伊能孝子書簡(宮内宏宛)
(濱宅所蔵資料)
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解読:伊能忠敬研究会 安藤由紀子氏


  拝啓 御葉書、難有拝見申上ました。
仰之通りきびしき御寒さ之折から、まづく御皆々様ニハ、何の御障りもなく入らせられますとの御事、
御喜ひ申上ます。扨此度ハ、峰子様ニハ御女子様御安産にて、御母子様共御健(すこやか)のよし、
真実(まこと)ニ御目出度、御悦ひ申上ます。 殊に御祖父母上様之御喜ひハ如何計かと、御推もじ申上ます
何れ御喜ひに 参上致すべくながら、取敢ず書中ニて、 一筆、御歓ひまて申上ます。
何卒御寒さ之をり、御せつ角、御大事ニ被遊ます様、御祈り申上ます。
乍末御祖父母上様御初め皆々様へ、御喜ひ之程、よろしく御伝へ御願申上ます
                                            目出度 かしこ
        一月二十三日                            伊能孝子
  宮内 宏様
  寿(封印)               佐原町伊能孝子
 
 


 
大隈重信書簡
 
(関戸覚蔵宛) (関戸家所蔵資料)
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 解読:伊能忠敬研究会 安藤由紀子氏



田中玄蕃(直衛:12代謙蔵)書簡
 (宮内克太郎宛)
(濱宅所蔵資料) 
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芳書拝見仕候 然バ過日転校
願書被成候職申上候処、御領承
の由拝承仕候 扨石毛生職
試験無滞相済殊ニ五等
準訓導拝命の趣、何寄大慶
の至りニ奉存候
一、過日御廻し相成候生徒陣名簿
の儀、命ニ随ヒ差上申候 尤
宮野氏ハ未ダ転校願済
不相済内ハ差支ニ付、何れ試験
執行の際ニハ御改メ相願可申
の処、幸、御使ニ付差上候間、米川
氏捺印御取置有之度、尤宮野
氏儀ハ試験の際迄ニ転校の許可
無之節ハ、調印の儀抹去可致候ニ付
是亦当人とよろしく御申合
置可被下候
一、試験日限ハ未ダ□然(判然)不仕
何れ本月十日前後トハ必行候得共、
未ダ確言無之候ニ付、分り次第
 
可申上候 尤拙簡理中試験ハ
小船木校を以て当初着手の
心得ニ付、諸事御注意被度
奉願候      *計・・ばかり
人員ハ小船木校計より岡野台を
組合せ可申カハ未ダ確定不仕
候ニ付、追々可申上候 先ハ御報迄
申上度早々頓首
六月一日         田中直衛

宮内賢兄中
御侍(カ)中

高田村学校事務職       学区取締
宮内克太郎様          田中直衛

至急間事
脚夫仕立赴(カ)・・・赤字にて
六月八日午後六時発・・・赤字にて
 
解読:古文書研究家 伊藤栄子氏



下の3通の彦太郎書簡はペリー艦隊横浜上陸を記録している

差出人の彦太郎はただ一人黒船に乗船

宮内彦太郎書簡(秀蔵宛)(嘉永7年2月2日)①(宮内敏所蔵)
彦太郎(33才)は大槻盤渓(53才)などと浦賀までペリー艦船を探索に行っている。秀蔵(秀三)26才
注)1847(弘化4年5月大槻盤渓「銚子磯めぐり観光」田中玄蕃の誘いか?(銚子市史)
14日:北風、三浦外浦長井ノ亀居の岩に1艘座礁?
解読:古文書研究家 伊藤栄子氏

 
   書簡登場人物(塩谷家)  
  塩谷宕陰(しおのや とういん)文化6年(1809) ~ 慶応3年(1867)
江戸末期の儒学者。昌平黌教授。嘉永6年(1853年)ペリー来航の際に献策し、海防論を著す。
塩谷簣山:塩谷宕陰の弟。
塩谷青山:簣山の子、漢学者
塩谷温:青山の子(しおのや おん):1878~ 1962年)。漢学者、東京帝国大学名誉教授。ドイツのライプツィヒ大学、清国の北京で研究活動をした。
温の妻は旧佐原町伊能茂左衛門(野尻村滑川藤兵衛家からの婿)の娘。高田村秀三の妻とは姉弟の関係。 
 
    
 北京から佐原塩谷節宛て(濱宅所蔵資料)  ドイツのライプツィヒ記念(濱宅所蔵資料)
   
  書簡登場人物(大槻盤渓)  
  大槻盤渓(おおつき ばんけい)享和元年5月15日(1801)~明治11年6月13日(1878)
幕末・明治の儒者・漢学者・砲術家。仙台藩の蘭学者大槻玄沢の二男。
昌平坂学問所(昌平黌)で林述斎に入門。27歳の頃、蘭学の修行、関西・九州を経て長崎へ遊学。『西遊紀程』。
1854年にペリーが浦賀に再来航すると藩命を受けて横浜の日米応接所に出向く。
吉田松陰は黒船に乗り込むため磐渓に相談したというエピソードもある。
仙台藩はペリーが来航した1853年、幕府が諸藩に対応の助言を求めたことに応じ、藩命で黒船見学のため2度浦賀へ行っている。
弘化4年5月(1847)大槻盤渓は銚子磯めぐり観光をしている(銚子市史)。
1854年のぺりー来航時の年齢:塩谷宕陰45才?、簣山は42才?、温は生まれていない。大槻盤渓53才?文彦7才?彦太郎33才、秀三25.才である。
彦太郎は昌平黌で 塩谷宕陰のもとで学んでいる。みな昌平黌繋がりか?
 


彦太郎書簡(秀蔵宛)嘉永7年2月12日⓶
10日横浜応接、600人上陸、彦太郎(33才):塩谷簣山?(42才)君等と見届ける。
11日、彦太郎はペリー艦船に乗船する。
12,13日バッテーラ20艘にて内海測量(東京湾の深さ測量)
解読:古文書研究家 伊藤栄子氏


参考
   ペリー艦隊浦賀来航
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)ペリーが米国大統領の国書を携え来日し浦賀に上陸。浦賀奉行と会見、国書を渡した。幕府側は返答の猶予を求めた。1年後再来航することを告げ帰国。その後将軍家慶が死去。13代将軍家定は病弱であった。攘夷論が高まる中、老中主座の阿部正弘は、広く意見を聞こうとしたが幕府の権威を下げる結果となった。

ペリー艦隊の再来

1854年(嘉永7年1月)、ペリーは半年後に再び浦賀に来航。日米和親条約(神奈川条約)が締結された。
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下は添田日誌
「 亜米利加船渡来日誌」より抜粋し彦太郎書簡の有無を書き入れたものです。
彦太郎書簡と添田日誌を比較していただきたい。

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嘉永7年(1854)
正月11日 大島沖に異国船数艘帆形見ヘ候由 韮山陣屋江川太郎左衛門殿より公儀へ御届あり。
正月12日 昨11日大島沖に見えた異国船何方ヘ航海するか 帆形相見えるよし、浦賀奉行より注進
正月13日 警固の諸家人数繰出すが異国船帰帆の由に付 途中より引戻、向かうもの有り。 
彦太郎14日の記録あり
正月14日 異国船一艘小柴の沖ヘ碇泊す。
正月15日 異国船見物人海岸ヘ立入付、浦賀奉行より浦触を以達
正月16日 四ツ半時頃異国船追々乗入、夕方迄に7艘小芝ノ沖ニ碇泊。 
正月17日 小柴沖碇泊船より小船ハッテエラト4艘に乗、本牧沖ヘ乗来 1艘は八王子の磯へ漕着。岩に落書す。
正月18日 浦賀奉行組与力衆異国船へ
正月19日 浦賀奉行付役人外国人同船にて金澤へ上陸。

正月20日 異人小船にて小柴ノ鼻ヘ乗廻リ岩ヘ楽書
正月21日 異人小船及本船1艘本牧十二天鼻へ乗参リ 直に又小柴沖ヘ帰船
正月22日 上総富津御備場会津侯御人数御出張相成居候 所、外国船ノ挙動相分ラス候迚当本牧辺へ
正月25日 異人本日国王誕生日ナルニ以テ、祝砲トシテ大筒ヲ 打放ス事おびただシ。砲声2,3十里に響亘リ、戸障子に鳴渡
彦太郎25日に江戸着浦賀へ
正月27日 小柴沖本船ヨリ小船パッテエラ乗四五人 宛左右櫂ニテ漕海中ノ浅深ヲ測リ、其跡本船走リ羽田沖迄乗入碇泊
正月28日 羽田沖ノ異船ヨリハアテエラ二艘神奈川 浦ヘ、2艘は横浜ヘ到る。浦賀より役船1艘ヘ組与力香山栄左衛門、外役々乗組上陸相成、同人案内ニテ応接場御定メトシテ見分有之。
正月29日 異船ハッテエラ小船ニテ八王子ノ鼻へ着、楽書ス右は明日横浜ヘ上陸スルト言文字ノ由
2月朔日 羽田沖ノ異船横浜沖へ改碇。夕六ツ時ニ笛太鼓ニテ音楽ヲ催シ又大筒一発。已後朝暮同      
彦太郎2月1日 浦賀から江戸に

2月2日 今日ヨリ字駒形へ応接所建築ニ着手。
2月3日 小屋場地平均等昼夜通シ切組陸揚ス
2月4日 今朝松輪ケ崎沖へ異国船相見ヘ候由浦賀ヨリ神奈川宿出張ノ御奉行方ヘ注進有之
2月5日 
前日ノ注進ニ付テ応接掛伊沢美作守殿ヨリ左ノ御達シ有之 昨朝相州松輪ケ崎沖へ異国船一艘碇泊致候、尤 亜墨利駕類船ノ趣ニテ大筒二十挺据有之。風模様次第早速江戸表ヘ罷越候趣手真似致候由  今朝浦賀ヨリ申越候旨心得ノ為、此段申達候   
2月5日 美作  猶応接組ノ者相成丈ケ乗込マセス引留置申諭中ニ  候得共、類船ニ候故行届申間敷旨申来リ候
2月5日 今日応接可有之処差合出来延日ト申事
2月8日 応接場建物見分トシテ伊沢美作守殿井戸 對馬守殿、林大学頭殿、鵜殿民部少輔殿、其外役々  普請出来形見分。 神奈川旅宿ヨリ船ニテ被相越候 異人モ十六人程場所見置トシテ上陸ス。

2月9日 応接場異人へ懸リ場所御渡ニ相成、夕方幕ヲ打廻し候
彦太郎2月10日記録有り
2月10日 今日は初めての応接にて異人およそ七百人程ハツテエラ船 28艘にて上陸。鉄砲を携候者350人程  内120人は浅黄色の装束、其他は黒色、何れも羅紗の筒ポヲ玄関前より海岸迄左黒の方前後に並び、浅黄の方  1人並び立ち、其間の所ヘ別に肩へポタン金物さした者20人 ばかり、又其ポタンに房の下りたる者十人ばかり立、鉄砲方は間々に 2人4人づつ、其両中に軍令役と相見ヘ候者黒装束、  肩にポタン金のフササガリの異人股引には赤き割れ入をはき剣を抜持、其行列の差図を為し大将分と相見ヘる。又一番跡よ上陸した惣大将と見へ、上陸の時に音楽いたす。直クニ応接所ヘ入、供ノ者十人ばかり玄関前迄つきそう。 さて一同打揃候ヘは大船の方にて大筒一発宛三面にて打放す 今日出張の御役々浦賀奉行伊沢美作守殿、大目付兼  町奉行井戸對馬守殿、御儒者林大学頭殿、通詞森山 栄之助、堀辰之助、名村五八郎、浦賀組与力組頭黒川嘉兵衛、 其外与力同心衆凡弐百人程、御代官斎藤嘉兵衛殿手付 山口茂左衛門等、其他応接場警固トシ小笠原大膳太夫、真田信濃守両家出陣ノ人数等也。夕七ツ時頃ニ応接相済、異人ヘ御饗応有之。

彦太郎2月11日記録有り
2月11日 今日病死セシ異人遺骸葬式ス。
彦太郎2月12日記録有り
2月12日 亜米利駕船渡来ニ付テハ遠辺ノ風説伝聞種々有之ヨリ、或は江戸表ヨリ船路見物ニ参ルモノ等夥多ニシテ  右制シ方取締等、厳重被仰出御触達アリ異国船渡来願ノ筋有之神奈川沖ニ碇泊致し、有之ニ付キ、見物体ノ者モ有之由相聞ヘ候。已来見物ハ勿論、彼方角ニ用事有之候者モ遠慮致可候者也
海岸村々名主ノ内重立候者、其外街道筋ニテハ拙者事取締向心得トして被命御用、中割羽織着用日々海岸村々見廻リ、見物人制方相勤昼夜奔走ス。

2月13日 異人上陸ナシ。当月2日以来日々57人 又は10人20人位宛(づつ)上陸シ、村内遊歩シ若キ婦人、小児抔(など)ヘ戯レ菓子抔与ヘ候。 菓子ト見タルハ小麦ノ粉ニテ製シ之ヲ パント。 又煙草ハ葉ヲ巻煙草ヲ吸歩行候。 名ヲシガルト申候
2月14日 異人四五人上陸ス。 
彦太郎2月15日記録有り
2月15日 今日再応接トシテ異人四百人程上陸、行列等先日ノ如シ。 此日ハ公儀ヘ献上物品々陸揚ス。知通曰ク 十四日夜川崎領海岸出役秋葉金次郎殿ヨリ、明日応接ニ付其模様見置トシテ同伴可致旨被申聞、其夜八ツ時頃宅出立。両人ト小者壱人保土谷宿神明大門ヨリ戸部村通野毛山頂上ニ至リシ頃、稍明六時ニテ碇泊船ニテ大砲一発打 放シタル時ハ不意ニテ驚駭セシナリ。 夫ヨリ野毛渡場ニテ船頭小屋ニ見張ノ番兵へ申断渡船、州干ヨリ畑中道ヲ通リ横浜村 出役詰所人家へ着。 朝四ツ時頃駒形応接場ヘ罷越。 程ナク異人ハッテエラニテ上陸ス。 一番ニ音楽掛先着シ、夫ヨリ  鉄砲組ノ兵士、船将ハ跡船ナリ。 嘗テ十日応接ノ模様ハ粗承リシモ音楽ノ拍子、鉄砲組ノ行列能ク、其指揮合図ノ届キタル体実ニ感入ニ不堪候。 扨船将及都テ頭取トモ言人物 衣装ノ立派ナル事目覚マシキ出立チニ相見ヘ候。豫テ応接掛御奉行方、通詞方等前十日ノ如ク御出張ノ由。支配役所ヨリハ田中第五郎殿、松浦武助殿、山口茂左衛門殿モ先着有之  其他関東御取締出役関口園十郎殿、吉田僖平治殿、吉岡部助殿 臨時見置トシテ出張有之。 而ルニ四ツ半時頃ヨリ雨降出シ傘 神奈川ヨリ取寄、雨ハ凌キ候得共昼食弁当間似合不申候故 拙者ト大師河原内田佐五右衛門(品川御台場詰合中ニテ田中才五郎殿ト同伴ノ由)両人空腹堪兼候 故、横浜村取付ニ飴菓子酒等商店へ参リ、漸ク凌ヲ得候。尤 村内人家ハ異人立入ヲ恐レ戸ヲ鎖ス有之ヲ押テ申入酒喰致ス。後ニ聞ク、此家ハ原見セト唱、離レ家ニテ中山弥左衛門ト言人家ナリ。夫ヨリ再応接場来、雨止ミ東風烈シ。 応接八ツ時頃相済、異人は警固場幕張ノ内 小笠原・真田両家出張人数ノ案内ニテ所々遊歩行、椿ノ花菜ノ花等ヲ採参リ七ツ時頃元船ヘ帰ル。此日真田家陣場奉行 佐久間修理ト申人、馬乗ニテ駒形嘉平次ト申人家ヘ参リ居。繋置カレシ馬ヲ異人借リ受、乗馬セシカ天晴騎馬ノ心得アリシト言。 佐久間氏ハ年齢三十四五歳位色白ク、顔長ク、眼中尖ク髭ヲハヤシ、黒羅紗ノ陣羽織ニ紺緞子ノ踏込袴着用、金作ノ大刀を帯ヒ一際目立テ立派ナル人物ナリ。 能ク蘭語ニ通シ故ニ異人ト通詞ナシニ言語ヲ交へ、又異人モ自ラ懇意スル体ナリ。支配出役ノ衆一同七時頃ヨリ船ニテ神奈川旅宿倉本ヤ方ヘ着、夫ヨリ秋葉氏同道帰村、渡田村太平方迄見送リ直ニ帰宅ス。
2月17日 仄(ほの)カニ聞、去ル十日又十五日ノ応接の問答彼国ヨリ 請願サル小笠原島沖ノハダカ嶋并(ならび)交易上ノ件ハ、阿蘭陀、漢土、朝鮮右三国ノ外ハ祖宗ノ遺禁ニ有之、容易ニ 許容成シ難ク、殊更昨年武将新タニ宣命以来百般 政令ノ日浅ク、此際ニ於テ交易市場等ノ儀は取調出来難ク、凡五六ケ年ノ間ハ何分返答致シ難シ、併(ならびに)小笠原島沖ノ 荒島新開ニ付、薪水等ノ義ハ豆州下田港ニ於テ兎角ニ 役人共ノ取計ヨリ談合可申、假令明年下田表ヘ渡来ストモ交易ケ間敷儀ノ願ハ決(けっし)テ不相成(あいならず)候。 且ツ其国ノ船唐 土渡海ノ節漂流シ、本国ヨリ積来タリシ薪水糧米欠乏シ我国ノ海岸ヘ漂着ノ者保護ノ義ハ相互ノ事ニ付キ承諾致ス。 只ニ信実ノ通義ハ天ノ公道人情ノ欲スル所ナリ。 尚其余ノ義ハ来ル廿六日互相和楽応接ニ譲ルトノ事ニ有之(これあり)由伝聞ス
2月18日 異人上陸ノ中清朝広東ノ人羅森、向喬ト申弐人詩文モ能ク書風見事ナリ。 横浜辺にて賦スル詩ニ
2月19日 今日異人上陸ノ内ウリヤコムト申異人アリ。言語我日本ノ如シ。此者生国ハ亜美理駕ニテ子細有之本国ヲ脱シ 清国乍甫ノ港ニ居住ス。 而ルニ亜美理駕国王ヨリ度々帰国ノ命達アリシヲ、此身ハ帰国セス弟ナルモノヲ返シ依然ト乍甫ニ居住致居候。 当時日本天保年間の頃交易船ニ乗込長崎へ両度参リ、此者の乍甫住居スル宅ヘ日本肥前ノ国人三人、尾張の国人三人漂流して、彼ノ方ヘ食客トナリ久シク同居セシ故ニ、日本の人情能ク熟知致シ居。 此ウリヤコムの咄シヲ聞クニ、今度渡来セシ亜美理駕船日本ヘノ海上順路ヲ申サハ、亜美理駕大合衆国ハ東西海ニ達シ、其内西界ハ日本ヘ相対シ江都ヨリハ辰ノ方角ニ当リ二十九度八度ノ内、合衆国の西界加理科迩唖省(かりふぉるにあ)ト申所ヨリ有何理部(おれごん)ト申処ヘ渡リ 此地方ヲ離レ、太平海ト申ス大洋ヘ出是ヨリ日本ヘ渡候 得ば、江戸内海迄日数廿日路計(ばかり)の海上ナレ共、仔細アッテ 此度ハ大平海ノ洋中ヨリ北ニ向イ魯西亜国ノ近キ海路ヲ 過テ、満州ヨリ清国の属州遼東ノ地ニ到リ、夫ヨリ朝鮮国ノ南ヲ西ニ行過、釜山ノ沖ヲ南ヘ通リ又清国ノ寧 波ニ碇泊シ、夫ヨリ乍甫ニ入港ス。 此乍甫ト申地ハ日本ノ 長崎ヨリ海路弐百六十里日本道トシテ有之由。 乍甫ヲ出帆シ琉球ノ地ヲ通リ其時ハ日本ト琉球トヲ左右ニ見シナリ。 夫ヨリ鬼界トモ云八重島トモ云、薩摩ノ出鼻山川ノ間ヲ乗抜ケテ、日向の国東南ノ出鼻ノ所ニテ北極ヲ観ルニ三十度七分余ニ見ヘ、夫ヨリ丑寅ヲ指シテ当地へ参リ北極ヲ観シハ三十五度八分強ナリ。 是ニテ考レハ九州ノ日向ニテ亜美理駕合衆国ハ辰ニ当リ、当地ニテハ辰巳ニ当ルナラント言
2月20日 異人少人数上陸 別ニ変ル風聞モナシ。 
2月21日 上陸ノ内異人壱人神奈川辺へ遊歩し、附添ノ役人引戻サントスルヲ不聞入、寺尾山ヘ登リ鶴見ヘ出、夫ヨリ街道筋ヲ  川崎ヘ罷越候ニ付、豫テ六郷渡船場ハ船々六郷ノ方岸ヘ繋キ置可様、渡舟ヲ促スモ不差出サ様注意ナシケレハ、無拠夫ヨリ 大師河原平間寺ヘ参リ、此処ハ立花飛騨守海岸警固場本陣ニテ其掛役々モ詰合居。 尚附添横浜ノ方角ヲ指シテ引戻サントスルモ不聞入、 夫ヨリ羽田道作場渡舟ノ方ヘ罷越ニ付、色々道ヲ換、竟ニ池上義田塩浜ノ方堤通リ茲彼所ト歩行、最早夕刻ニ至候。 其内通詞方追駆参ラレ、応接の上漸ク立戻リ川崎へ出、街道通リ生麦村ヨリ端舟雇揚、本船ヘ送リ返ス。
2月22日 亜美理駕船一艘追着ス。 是ハ兵糧船の由。 今日豫テ碇泊の中一艘出帆、伊豆国下田港ヘ参ル。  本日江戸ヨリ天神丸御座船一艘 応接場ノ東ヘ着船ス。 
2月23日 蒸気車并(ならび)伝信機取付仕上ケ以来セシニヨリ、応接小屋前ニ於テ運転シテ、之(こ)レヲ日本役々ヘ一覧ニ供ス。 其形(かた)チ一ノ車銅鉄ノ箱ノ如シ。 煙出シ真鍮ト銅ト二ツアリ、左右ニ車輪二ケ宛具シ、 箱ノ如キ中ヘ湯ヲ沸シ湯気ノ勢ヲ以テ運転ス。 
2月24日 今日、伝信機ヲ試験セントテ異人上陸ス。 
2月25日 神奈川沖滞留ノ異船ノ内蒸気舟壱艘明廿六日 暁六ツ時頃出帆。
2月26日 今朝応接、 異人四百人程上陸、 行列先前ノ如シ。但今日ハ奏楽二ツ組ニテ、嘗テ掛リ御役々ノ外御代官江川太郎左衛門様并手附、手代、中方凡十人程御付添 有之。 いずれも羽織裁附袴等一様え衣服ニテ、立派ニ相見ヘ候。 異人ヨリハ過日来陸揚致置タル諸器械 荷物共、 御公儀様ヘ献上ノ品々取揃差上ル。 又我国ヨリ被差遣候品々モ異人ヘ御渡候。 
2月27日 異人ヨリ願ニ付、 昨日被下物ノ外ニ日置流ノ鉄砲三挺 二十匁玉ノ内外ヲ売渡しニ相成候。 
2月 28日 風雨異人上陸ナシ
2月29日 今日異人ヨリ日本ノ御役々ヲ船中ヘ招待、 饗応ス。
2月晦日 早天異人百人程上陸。 昨日船中ヘ御役々招待ニ付テノ御禮ナリト云。今日上陸セシ異人ノ内マロント申モノ写真鏡ヲ携参リ、 増徳院庭ニテ日本人ノ姿ヲ写ス
3月朔日 先月22日豆州下田湊ヘ明年渡来ノ節 碇泊ノ場所見置トシテ、出帆セシ船二艘彼地用済(かのちようずみ)ニテ今朝  横浜浦ヘ帰帆ス。 船中肉獣ノ食料ニ草ヲ刈採遣(かりとりつかわ)ス。
3月2日 先達而(せんだって)異人ヨリ献納シタル物品今日江戸表ヘ御差  送ニ相成異人大勢上陸、昨日ノ如ク肉獣ノ食料ニ為(な)ス  迚(とて)草ヲ刈持帰ル。 明日ハ御暇乞(おいとまごい)ノ応接ナリト云々
3月 3日 今日ハ御御暇乞ノ応接有之(おうせつこれあり)。 別段異人ヨリ御願筋は  日本有名ノ三都拝見ト、献納ノ器械国王ノ御庭ニ  於テ火輪船其他組立御目(おめ)ニ懸度(かけたし)トノ申立ニ候處  日本国王即今政度維新ノ際ニテ諸役人モ多忙 且国王ニハ斎中ニ被為在(ありなされ)殊更暇乞応接済ノ上ニ候へハ  其義取扱難被及旨(とりあつかいがたくおよばざるむね)ヲ以テ御断(おことわり)ニ相成、異人モ承諾セシ由
3月4日 異人多く上陸ス。 其中ニ日本酒ヲ呑度由ヲ申村内 所々歩行廻(あるきまわ)リ、 且(かつ)飴菓子店ニテ価四銭ノ菓子二ツ買 代銭無之迚(これなきとて)ボタン一ツ取外シ呉候得共跡ニテ御役人ヘ  其旨申上ポタンハ御返(おかえし)ニ相成
3月5日 今日ハ亜墨理駕合衆国祭典ノ祝日ナリトテ船中  終日酒宴ヲ催シ楽ヲ奏シ賑ワシク相聞(あいきこ)ヘ候
3月6日 上陸ナシ 昼前大雨ナレハナリ
3月7日 今朝四ツ時頃異船一艘帰帆ス。 其風聞ニ日(いわく)当年正月八日長崎港ヨリ出帆セシオロシア船本国ヘ帰帆セス、九州四国辺日本海ニ漂海シ此節ハ伊勢志摩三河ノ国沖ニ相見ヘ候由ノ風説ニテ、自然此内海ヘ可乗入(のりいるべく)モ難計(はかりがたく)右ヲ遠見トシテ一艘出帆セシナリト言
3月8日 今日異人ヨリ大筒一挺献上、近日帰帆ノ由、御警固真田侯人数五十人程帰府。 小笠原侯モ同断
3月9日 異人上陸ナシ。 此節異船見物人多ク立入候ニ付 村方口留番人ヲ被申付(もうしつけられ)候
3月10日 今日ハ上官ノ面々美服ヲ着シ大勢上陸。 州干島ヨリ太田屋新田川添ノ堤土手上ヲ南へ行、山手ノ方ヨリ所々見物 致し、昼九ツ時頃増徳院へ参リ、夫ヨリ名主徳右衛門方庭上ヨリ坐敷ヘ上リ、上席ニペルリ、次ニアンタムス、次ニポルトメン、右三人ハ床ノ脇ヨリ南ニ坐シ、床ノ東ヨリ北ヘウリカン、次ニウリヤムス、次ニタアムスン右三人、夫ヨリ中官ハ次ノ間、都合十三人坐席ヘ上リ其他ハ外ニ居ル。 茶菓子ヲ喰シ焼餅ノ如キパント云ヲ食ス。 酒モ少々宛呑シナリ。 附添御役人ハ浦賀与力合原操蔵殿ナリ 
3月11日 合原操蔵殿異船ヘ被参(まいられ)大筒ノ打方火薬等ノ秘術伝習アリシト云 異人上陸ナシ
3月12日 今日ハ応接御掛リ林大学頭様、井戸對馬守様、其外共神奈川御旅宿御引払、御帰府ニ相成。 明十三日ハ異船モ帰帆スルト云
3月13日 快晴朝五ツ時異船七艘ノ内六艘出帆ス。 夫ヨリ廿一日迄ニ不残(のこらず)異船帰帆致候事。
 


彦太郎書簡(秀蔵宛て)3月6日③
解読:古文書研究家 伊藤栄子氏
彦太郎書簡(秀蔵宛て)4月4日④
 
解読:古文書研究家 伊藤栄子氏


秀三の母書簡(秀三宛)(濱宅所蔵資料)
秀三の母は宮本茶村の姉
   尚々
新春の寿御老人方御初め皆くそく才ニ嘉年致候  *息災に加年致候
其御もと様ニも御無事ニて御嘉年被成候半御事とめで度存候    *御嘉年なされそうらわん御事と
一、栗橋一けんも、嘉左衛門帰り迄ハわかりかね候ようす、其のちいかゞニ御ざ候哉、
大キニく御くろう千万ニ存候 此説ハ定て江戸へ御出と存られ候
幸介の中(ママ)鳴ぜひく      *中鳴、長泣き
帰り候半と日々待居候へ共いまだ帰宅不致、幸介ハ
六日ニ此方よりく遣しまいらせ候 定て無事ニ着致候事と存候 
いまだ御手間とれ被成候ヘバ、両人の内壱人ハぜひ御帰し被成候様いたし度候
こころづき候まゝ一寸申入候      *一寸・・・ちょっと
        
外ニ用事申こし候まゝ御めんどうながら 御だし被下度候 じゅばんよごれ候
半一ツ遣し候 足袋ハ御とゝのひ被成まいらせ候 何もく用事のミ     *何も・・いずれも
早々申残し候 彦太郎も             *彦太郎・・秀三の兄
何かとまちがゐの事ハ 大キニあきらめ候まゝ私共も 大キニ安心致居候 
何卒くはよふ用向かたづけ御帰宅の程御待申候 
此度平七事出府致御坐候て、しらせくれ候
まま頼遣し候 外ニ御とゝ様よりも   *とゝ様・・清右衛門12世胤繁
用事御頼被成候御よふすニ御ざ候    *御よふす・・・御様子
十五日方出立ニて 三浦やも登り候よふすニ御坐候 
早々めで度く かしく
    正月十二日夜

宮内秀三様
    まいる   同
              母より    *母は宮本茶村の姉
解読: 古文書研究家 伊藤栄子氏
(注)
父と共に家業を継いでいたころの書簡と思われる。後に兄が戻り清右衛門を継いだため、
分産創業し一時絶えた濱宅家を再興する

文面からは分からないが父(とゝ様)の健康状態はどうであったのだろうか。
この書簡の2~5年後の(1855年)に父は亡くなっている




大森村大庄屋 宮島勘右衛門書簡 (濱宅所蔵資料)

解読: 古文書研究家 伊藤栄子氏


 大森陣屋と対面に建つ宮嶋家の図 



宮島宗十郎(勘右衛門の子)氏作成 : 宮島千恵子氏所蔵
 
   大森陣屋(役所)  
    享保8年5月佐倉藩稲葉正知が山城国淀藩に移封となり,旧領地の一部(下総、常陸両国)が飛び地として残り、それをを支配するために陣屋が置かれました。
 陣屋には代官が2人いて、役宅の位置によって東様、西様と呼ばれ、月番で勤務していました。
使番は領内の名主などの有力者の子弟を登用し武士身分を与えました。また、57カ村の地主の中から、大庄屋や数人の「郡中取締役」を抜擢して苗字帯刀を許し、年貢の徴収、紛争の処理、宗門改め、五人組改め、鉄砲改めなどを担当させました。(ネット情報他)
 
  大庄屋宮嶋家  
    大森村の名主宮嶋家は独り大庄屋に任命され、大森役所の隣に屋敷を構え、藩令の取り次ぎや、村々の要望を藩に伝える重要な役目を担って藩の期待に応えた。  
   大森宿の繁栄  
   江戸への玄関口である行徳河岸から大森宿(木下)に通ずる木下街道は鹿島道や銚子道につながる交通の要衝で、鹿島・香取・息栖の3社詣でや鮮魚等の輸送の中継地点として大いに栄えました。