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Ver-20170315


  由 良  守應
(紀州先人)
 
  青 野 逸 山 潜
(書家)
 
 福 原 越 後
(長州藩家老)
 
 山 縣 有 朋
(政治家)
 
 勝  海 舟
幕臣、政治家
 
朝 川 善 庵
 漢学者
 
 久 保 木 清 淵
 漢学者
 宮 本 茶 村 
考証学者 
雁 来 紅 
鍋蓋を観るの引 
 
奥 原 晴 湖 
画家 
 
 
 
 
 
 
 
 
****************

書  画__
_*特設コーナー  
   展示にあたって当館は千葉県銚子市にあります。当地と和歌山県は特別な関係にあります。1600年代に入ると関西方面から銚子への移民が始りました。紀州漁民はその進んだ漁法を伝たえ当地の漁業発展に大きく寄与しました。また紀州人は江戸時代後期から明治、大正、昭和、そして現在に至まで、この地方の政治、経済に大きな役割を果たしてきました。紀州広村出身の実業家、濱口悟陵(七代目濱口儀兵衛ヤマサ醤油)は津波から村人を救った物語『稲むらの火』のモデルとして知られています。その安政元年11月5日に発生した「安政南海地震」に因んで11月5日が「世界津波の日」になっています。当館最初の書として紀州の先人のひとり由良守應の書を紹介します。和歌山県由良町の興国寺には由良守應の功績を称える顕彰碑が建立されています。興国寺は味噌醤油の元をなした寺として知られています
 
 

由良守應の書(濱宅所蔵) 
 


 
義渓・由良守應
 
神州之民


朝(腸)、千里(由良守應の号)、巳巳(明治2年)、初冬(旧暦10月)、日中(正午)
  (注) 書の内容・活字化などについて
和歌山県企画部企画政策局文化国際課文化振興班のご協力をいただきました。
 由良弥太次(守応),号は義渓.。文政10年(1827)~明治27年(1894)。幕末の志士、明治時代の実業家。
二階建ての馬車を走らせた時代の先駆者。紀伊日高郡(和歌山県)、門前村(現由良町)生まる。 
菊池海荘に武術や漢学を学ぶ。後藤象二郎、伊藤博文、陸奥宗光らと交流。明治元年(1926)、大阪府勧農課に入り、次いで内務省勧農局に転任する。 明治4年(1871)、岩倉具視の欧米使節団随行して欧米諸国を歴訪。英国でオムンボスという二階建ての乗合馬車を見て、馬車に魅せられ、日本でも走らせたいと夢を持つ。荘厳と走る女王の馬車を見て、同じものを天皇の御召馬車として購入するように嘆願し、実現させる。明治6年(1873)、帰国後、御召馬車の手綱をとる皇宮御馬車係となり、英国以来の夢が叶う。ところが、皇后・皇太后を乗せた馬車が転覆し、その責任をとって辞任する。
明治7年(1874)、乗合馬車会社「千里軒」を開業、浅草から新橋間に30人乗りの2階建て馬車(オムンボス)を走らす。しかし、同業者の増加や鉄道等の発達により、明治13年(1880)、営業に終止符を打つ。その後、発動機の製造会社を設立。
明治27年(1894)、67歳で死去。由良町興国寺内には、守応の功績を称え、顕彰碑が建立されている
鷲峰山興国寺(臨済宗)
興国寺は葛山五郎景倫(願性)が鎌倉三代将軍源実朝の菩提を弔うため安貞元年(1227)真言宗西方寺として建立されたもので、正嘉2年(1258)心地覚心(法燈国師)が宗旨を禅宗に改めると「関南第一禅林」として栄え多くの高名な僧を輩出した。覚心は永仁6年(1298)示寂(高僧の死を示します)。その後国師号を授かり興国元年(1340) には後村上天皇から興国寺号を賜ったと伝えられます。天正13年(1585)羽柴秀吉の紀州攻めにより 堂宇の大半を失ったが 紀州藩浅野家・徳川家代々の藩主の庇護を受け復興されました。湯浅名産の「醤油」「径(金)山寺味噌」の発祥地。
陸上交通の先駆者由良守応(もりまさ)の墓
興国寺の山門から石段を登って行くと石碑と「由良守応」の案内説明板があります。
(由良町教育委員会・和歌山県教育委員会)

和歌山県情報館などサイト情報より要約
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青野逸山潜(濱宅所蔵) 
明治期の書家

   
 佐原(香取市)の大祭の山車 額文字 明治28年(1895)制作額の文字「下分」は青野逸山によるもの。
○青野逸山潜に関する情報お待ちしております
  死去豫期葬首陽百年身世
剣鋩霜睡醒窓底尋残夢暁
月光寒頭断場


録 水雲先生獄中作 逸山青野潜 印印

死去 豫(かね)て期す 首陽(しゅよう)に葬られるを
百年の身世(しんせい) 剣鋩(けんぼう)霜
睡り醒(さ)めて 窓底に残夢を尋ぬれば
暁月 光は寒し 頭断場(とうだんじょう)

注)水雲先生とは:宮本茶村のこと、水雲とは茶村晩年の号である

この詩は獄中での作である。
藩主斉昭の雪免運動に参加したために捕われ水戸藩赤沼の獄舎に繋がれる。
幽囚3年この間も自若として詩を賦し志を述べる。弘化4年出獄を許され蟄居となる。
嘉永2年6月蟄居解かれる。


長州の勤皇の志士・吉田松陰は東北遊暦の際、嘉永5年1月6日、茶村宅を訪れ宿泊した。(この後銚子に向かう)
この詩は松陰により持ち帰られ
松下村塾で詠われていたと云い、久坂玄瑞著「俟采擇録」に採録されている。
(注)
ここでの記載内容は宮本茶村生誕200年祭(潮来市)の講演(講師植田敏夫先生)要旨を
窪谷悌二郎氏がまとめられた冊子より抜粋構成したものである。
 


紙本肉筆・・縦25.6cm、横 16.8cm(上下3枚)
殳鴎翁とは?情報お待ちしております。






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福原越後の画長州藩の永代家老(濱宅所蔵)

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  福原越後(福原 元僴(ふくはら もとたけ)
   幕末期の長州藩の永代家老。福原越後として知られている。
号: 翠崖
生誕 文化12年8月28日(1815/9/30) ~死没 元治元年11月12日(1864/12/10)
長州藩支藩である徳山藩主・毛利広鎮の6男として生まれる。 幼名を徴之助という。,
長州藩士佐世親長の養子となる。主殿と称す。
安政5年(1858年)、藩命により長州藩で代々家老職を継ぐ家柄の福原親俊の家督を継承し越後と称す。
国家老として藩主・毛利敬親を補佐し、尊王攘夷運動を推進する。
文久3年(1863年)、8月18日の政変で長州藩が京都から追放されると、
来島又兵衛や久坂玄瑞らと協力して挙兵し、上京して
禁門の変を引き起こした。
越後は蛤御門で大垣藩の藩兵と戦ったが、敗れて負傷し帰国。
幕府による第1次長州征伐が起こると、藩内では保守派である俗論党が主導権を掌握。
西郷隆盛の要求により国司信濃・益田右衛門介と共に禁門の変、並びに長州征伐の責任を取る形で、
元治元年(1864年)岩国の龍護寺で自害した。享年50。
寡黙で果断、温厚で幕末初期の長州藩政を運営した名臣として評価されている
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山縣有朋の書 (濱宅所蔵)



紙本肉筆・・縦 35 cm、横 42.3 cm
    
 ◎この書について関連情報をお待ちしております(解読、内容に関する事等)
 

山縣 有朋
(やまがた ありとも)号・別称等 含雪
山口生まれ。天保9年(1838)~大正11年(1922年)2月1日)。明治・大正の政治家・軍人。
幼名は辰之助、通称は小輔、後に狂介と改名。維新後は有朋の諱を称した。父は萩藩士。松下村塾に学ぶ。
奇兵隊の軍監として活躍。戊辰戦争に従軍。兵部小輔、兵部大輔、陸軍大輔を経て明治6年(1873)陸軍卿に就任。徴兵令の制定を推進。軍制の確立に尽くす。11年(1878)参謀本部長。16年(1883)内務卿。18年(1885)第一次伊藤内閣の内相に就任。民権運動を抑圧するとともに、中央集権的な地方制度の確立につとめる。22年(1889)第一次山県内閣を組織。第二次伊藤内閣の司法相、陸相、枢密院議長、日清戦争時の第一軍司令官などを歴任。31年(1898)第二次山県内閣を組織。日露戦争時は参謀総長として作戦指揮にあたる。元老として「山県閥」と呼ばれる官僚、軍人の一大勢力を形成し、政界への影響力を行使した。
晩年は陸軍のみならず政界の大立者として君臨し、法王の異名をとった。第三代、第九代内閣総理大臣。元老。位階勲等は元帥 陸軍大将 従一位 大勲位 功一級 公爵。

井上馨 
いのうえ かおる。  天保6年(1835)~大正4年(1915)
山口生まれ。政治家、元老。父は萩藩の郷士。
高杉晋作らとともに、尊王攘夷運動で活躍。維新後は参与、大蔵大輔、参議兼工部卿、外務卿などを歴任。
明治9年(1876)特命副全権大使として日朝修好条規の締結に関わる。三井をはじめ、実業界とも深いつながりを持ち、鉄道事業などにも関与した。18年(1885)第一次伊藤内閣の外相に就任。鹿鳴館に象徴される欧化政策を展開し、不平等条約の改正に奔走。黒田内閣農商務相、第二次伊藤内閣内相、第三次伊藤内閣蔵相等を歴任し、引退後も元老として重きをなした。
   

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 勝海舟(かつ かいしゅう)(濱宅所蔵)
 
 晩年:勝海舟(濱宅所蔵)
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紙本肉筆・・縦34.3cm、横8.6cm  (縦93cm横26cm)
  勝海舟(かつ かいしゅう)文政6年1月30日〈1823〉~明治32年1月21日(1899)
幼名は麟太郎(りんたろう)、本名は義邦 (よしくに)、維新後に改名して安芳(やすよし)。
父は旗本小普請組の勝小吉。母は信。江戸時代末の幕臣、政治家。枢密顧問官、正二位勲一等伯爵。
10代は剣術と蘭学に励む。後に長崎海軍操練所で航海術と砲術を学ぶ。
ペリー来航に際して幕府に意見書を提出したりした。
攘夷派から命を狙われ坂本龍馬が彼を暗殺しに来たが、逆に説き伏せて自分の弟子にしてしまった。
万延元年には咸臨丸の艦長としてアメリカを往復。使節の成功により幕府内でも強い発言力を持つ立場になり、幕府の軍艦奉行に任命された。
後に池田屋事件に連座して謹慎処分になるも幕府が第二次長州征伐に失敗すると、その和睦のための全権使者に任じられ和睦を成立させる。
大政奉還、官軍の東海道東進に際し、官軍の幹部・西郷隆盛と連絡を取り、三日間の会談の末、江戸無血開城を成し遂げ、江戸が火の海になるのを救った。
明治維新以後は何度か政府の要職(参議・海軍卿・枢密顧問官)に付くが、権力闘争からは離れた立場にいて、悠々自適の日々を送った。
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この掛け軸は勝伯爵家の家令をつとめた天野家が勝家から頂戴したものの一つである。天野家は井戸野(現旭市)付近の旗本であったが、のちに勝伯爵家の家令となった。
伊能忠敬測量当時(1801年8月)は吉崎村辺りを知行地としていたことが伊能図からもわかる。(下図) 
 
伊能大図部分 (国会図書館蔵)  に加筆 :天野三郎兵衛知行所 吉崎村とある。
勝家家令の後、天野正義氏は朝鮮、高田市、函館市の郵便局長を務めた。
*****は明治36年千葉師範学校を卒業後教職に就いていたが、昭和10年高等官待遇に任ぜられたことを祝して義父の天野正義氏から、この掛け軸を贈られた 

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朝川善庵(あさかわ ぜんあん)(濱宅所蔵)

                  
 紙本肉筆・・縦121.8cm、横28.2cm  (縦174cm横39cm)
「江戸五十七老人善庵鼎」の下に、陰刻「朝川鼎印」と陽刻「五鼎氏」の落款が押されている。

朝川善庵(あさかわ ぜんあん)
略歴
朝川善庵は江戸後期天命元年(1781)~嘉永2年(1849)の漢学者・儒学者(折衷学派)。
名は鼎、字は五鼎、号を善庵・学古塾と称す。折衷学派の儒者片山兼山(かたやまけんざん)の末子で、医家朝川黙斎の養子となり、朝川姓を名乗る。12歳で折衷学派の山本北山に学び、松浦侯・藤堂侯などの諸侯から、賓師の礼を受けた。
 幕府の依頼で、下田に漂着した清国船員と筆談する。その後、寛政10年(1798)朝川黙斎に伴われて京阪・長崎・薩摩に遊学する。江戸に帰って門弟に教授し、後に松浦侯の儒臣となる。著書に、『論語集説』八巻・『左伝諸注補考』八巻・『荀子箋釈』八巻・『善庵文鈔』八巻・『善庵詩鈔』二巻等がある。
墨田区常泉寺に墓地がある。(一部ネット情報)

伊能忠敬と朝川善庵の関係
伊能忠敬の4人目の配(内妻)とされる栄(大崎栄)は伊能忠敬測量の助手でもあった。
大崎栄は始め久保木清淵(忠敬の漢学者の師であり、伊能測量の協力者)の下で学んだが、後に山本北山門下になった。同門には潮来の宮本茶村、梁川星巌、大窪詩仏などいる。北山が亡くなると、栄は朝川善庵のもとに身を寄せたといわれる。
 香取民衆史9 「 伊能忠敬の家族たち(四)ミチの死後に 」   小島一仁氏 によると
エイの自叙伝に「・・余初め総に在りしとき窪木清淵先生に学を受け、幾許(いくだ)ならずして都へ帰る。
北山先生に謁する事を得、歳三十四、家と永訣(えいけつ)(永遠に別れること)す。
寡居(かきょ)(一人身で暮らすこと)多年、煢々(けいけい)(孤独、頼るところのないさま)として恃むところなく、紡績の余、書を読み、詩を作る・・」「・・山本北山は1815年(文化5年)に死去してしまったため、その後、エイは、北山の弟子であった朝川善庵のもとに身をよせたのではないだろうか。・・」と述べている。
書の来歴
潮来の宮本茶村は山本北山門下であり、梁川星巌、大窪詩仏なども同門で詩友である。潮来にも来訪している。宮本尚一郎(茶村・水雲)の父は旧高田村宮内清右衛門第十世正壽(濱宅の祖)の第四子高重で潮来宮本家に婿入りし十代当主となった。(次男が茶村)。この書のコレクターである宮内秀三の母は茶村の姉で高田村宮内清右衛門十二世の配である。 このような関係から、宮本茶村、朝川善庵、梁川星巌などの書がある。 

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宮本茶村 (濱宅所蔵)


雁来紅 


紙本肉筆・・縦137cm、横60cm



資料解読文提供:窪谷悌二郎氏

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大高源吾の鍋蓋を観るの引 









資料解読文提供:窪谷悌二郎氏



景山とは誰、赤穂との関係は:秋山 朋信?

関連情報をお持ちの方ご連絡下さい





子葉:大高源吾の号:関連情報をお持ちの方ご連絡下さい


大高源吾(忠雄)
赤穂藩士、幼名は六郎、金奉行・膳番元方・腰物方など。
俳人として才能を発揮。俳諧集『二ツの竹』を編著した。
元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は切腹、赤穂藩は改易となったが、この凶変の際に江戸にあった。後、主君の仇吉良義央を討つため江戸へ下っ際は、町人脇屋新兵衛を名乗った。吉良家出入りの茶人山田宗偏に入門して、12月14日に吉良屋敷で茶会があることを突きとめる。大石はその情報を、上野介と親しい坊主の許に来た手紙の情報と照らし合わせて、討ち入りの日と決めた。
吉良屋敷への討ち入りでは、表門隊に属して大太刀を持って奮戦。吉良義央の首をあげ、一行は浅野長矩の眠る泉岳寺へ入った。泉岳寺で子葉を知る僧侶から一句を求められ「
山をさく刀もおれて松の雪」の句を残した。
幕府により大石の嫡男大石良金らとともに芝三田の松平定直の中屋敷へ預けられた。
元禄16年(1703年)2月4日、赤穂浪士へ切腹が命じられ、忠雄は松平家預かりの浪士10人の最後に切腹の座につき、「
梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」の句を残した。
松平家家臣の宮原頼安の介錯で切腹。享年32。戒名は、刃無一劔信士。(NET情報より抜粋)


宮本茶村の詳細へ

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奥原晴湖(おくはらせいこ)(濱宅所蔵)
 
   
紙本肉筆・・(縦213.2cm横76.6cm)
 

部分拡大図
 
 
奥原晴湖(おくはらせいこ) 天保8年(1837年)~大正2年(1913年) 
   下総国古河(古河市)生まれ。ゆかりの地:埼玉県熊谷市。
幼い頃より薙刀(なぎなた)、剣術、柔道に親しむ一方で学問にも非凡な才能を示した。また、多くの文人墨客と交わり修養を積みました。
 晴湖は、関東南画壇の総帥・写山楼谷文晁門下で南北二派を学び、墨竹画に優れていた牧田水石に師事し、10代後半から絵の本格的修養を始めます。文晁とその弟子の渡辺華山などに私淑し、明清諸大家の書画を多数模写して実力を培いました。
 晴湖は、時代気運に乗って、東京の南画壇に確固たる地位を築いていきます。維新の陰の立役者土佐藩主山内容堂の雅会の席で、木戸孝允に認められ、明治5年(1972)には宮中に召されて、天皇、皇后両陛下の御前で揮亳の栄を賜りました。同年には住家・墨吐烟雲楼内に設けた寄宿舎形式の画塾・春陽学舎に300人を越える門人が詰め掛けるなどという隆盛期を迎え、断髪、男装という出で立ちで画壇に君臨しました。
 やがて西洋文明が広がると、水彩画の古典主義は次第に押されます。時代の変化を敏感に感じとった晴湖は、閑寂な地を求めて熊谷に転住し、ここを終生の地としました。ここで晴湖は学問等の読書三昧の生活を送り、また数回にわたる旅行によって、画境を深め、作品に豊かな着色を施すなど、その作風も大きく変わります。中央の画壇からは隔絶したところで、南画(文人画)本来の理想の画境で、ゆったりと制作を続けました。
 晩年の20余年は、完成期の代表作がほとんど熊谷で描かれ、近代の地方文化面で晴湖が熊谷地方に及ぼした影響は大きいものがありました。
 
 
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