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 Ver-20170402
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◎九十九里関連  
九十九里歳玉帖    
 九十九里年賀廻り帳   
取引先プロット  
旅の持ち物  
   
◎鹿嶋郡波崎関連   
矢田部村地網本金勘定開帳  
東下村波崎浦八軒網貸金差引調  
   
◎干鰯   
干鰯について  
大漁節にみる鰯の大漁  
   
 ◎木版石販広告  
木版・石版、広告ちらし   
 
 
 ◎為替一札  
為取替一札之事  
   
 ◎仙台藩関連  
古文書(仙台米運送書)  
  目録  
拝領品  
   
長州関連資料   
 1次長州攻め記録の写  
福原越後(国家老)の画  
  宮本茶村獄中詩(松下村塾で詠われた) 
山縣有朋の書   
長門懸周南撰(明倫館2代学頭山県周南)書   
見島地図(伊能測
量隊提出資料) 
 
   
◎清右衛門関連  
千葉氏と清右衛門家   
円福寺寄進者リストにみる高田村  
日本名所客遊詞草   
     
旧高田村新川協力竣工記念碑  
    
清左衛門濱宅由来    
    
   
◎その他  
 江戸大地震・出火場所   
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その他資料_-

 九十九里歳玉帖
  この歳玉帖は宮内清右衛門分家、清左衛門濱宅宮内秀三(秀蔵、周蔵)使用のもので、
-慶応3年の九十九里濱の歳玉帳とある。下に取引先をプロットしている。
版木には〆粕や干鰯(ほしか)賣場問屋とある。
-この時期は分産創業し、一時絶えた濱宅を再興。大きな希望を持って事業に取り組んでいた頃と推測される。
◎画像クリックで拡大画像が見られます  
表紙



下長井村(下永井)
旭市




飯岡村(旭市)






横根村(旭市)
萩園村(旭市)



三川村(旭市)
野中村(旭市)



足洗村(旭市)
椎名内村(旭市)



足川村(旭市)




神宮寺村(旭市)



村( )
一ツ松(長生村)



井之内(成東町)



蓮沼村



カシケ村
松ケ谷村



屋形村



長塚村



谷村
山柄



尾形村



堀川(野栄町)




栢田村(野栄町)



新堀村
川辺村(野栄町)



今泉村(野栄町)



野手村(野栄町)



裏表紙
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九十九里歳玉帖みる取引先を地図上にプロットする


現在の九十九里浜
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九十九里方面への出張旅はどのようにおこなわれていたのだろうか
 
携帯用事務用品(ソロバン、硯と筆(朱と墨、水さし) 矢立(磁石付)-
印入れ? 携帯用箸ケースと伸縮型の銀製の箸
紐つきがま口 財布(しらすのアクセサリーが面白い)
携帯用事務用品入れの裏面の記述
「油断大敵」がおもしろい
当時の出張旅の様子がうかがえる
 「しらす」とは鰯の稚魚である(象牙製)
九十九里への旅にはぴったり
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この杯は何のために何時作られたであろうか
取引先にでも配ったのであろうか


大漁

標章入り帆の大漁船の絵


高田 宮内
耕海釣徒
(秀三の書にはペンネーム的にしばしば使用)
号: 友鷗
(宮内秀三):(商売関係では秀蔵、周蔵の記述も)
秀三は分産創業し自ら立ち上げた
企業名を友鷗商社と名ずける
(商社を使うのは当時としては珍しいのでは?)

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茨城県波崎町(現神栖市)との取引

安永9年(1780年)高田村宮内清右衛門仕入矢田部村地網本金勘定開帳

旧常陸国鹿島郡矢田部村との取引  安永9 年(1780年)

上図は茨城県史料近代経済編Ⅱ(P393、P394)をワープロに打ち直したものである。 

内容は同じだが体裁は若干異なる。詳細は茨城県史料近代経済編を参照されたい。
    安永9 年(1780年)高田村宮内清右衛門仕入矢田部村地網本金勘定開帳  (矢田部村:現茨城県神栖市)
 表紙 「 庚 安永9年  地網本金勘定帳 子 正月吉日 」
 上記資料は所蔵者である現神栖市矢田部の安藤敏武氏より紹介され作成した。
 高田村に大火があり宮内清右衛門家の貴重な資料も焼失した。(下総国海上郡船木台村史誌(石毛光治編)。
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常陸東下村波崎浦_八軒網貸金差引調明治5年10月
 
 (茨城県神栖市波﨑)

   現神栖市波崎との取引

明治5年10月吉日

常陸東下村波崎浦  
八軒網貸金差引調




北総高田川岸

宮内秀三
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干鰯について 

   干鰯:生鰯をそのまま海岸の砂地に干して作る肥料のこと。
〆粕:
生鰯を大釜で煮て、それを圧搾機で締めると〆粕ができる。
粕割:
〆粕を天日に干したのち割ったもの粕割という。
    干鰯肥料が江戸で扱われるようになったのは
紀州方面から房総半島に移住した漁民によって干鰯が作られ江戸に搬入されたのが初めらしい。
明和年間に書かれたとされる『関東鰯網来由記』という本には寛永13年(1637年)に銚子から江戸に向けて初めて干鰯が搬出されたと記されている。
紀州の人々により進んだ鰯漁法が千葉県(銚子、九十九里など)へ伝えられた。
その漁法は海岸線が砂浜に恵まれた九十九里では地引網(袋状の網を引く漁法)が、そうでない銚子等では八手網(海中に網を敷き、餌等により魚を誘導する漁法)がもちいられた。
また、銚子は紀州からきた人たちによって醤油醸造業が発展した。

  干鰯問屋とは
江戸時代に干鰯などの魚肥を扱った問屋のこと。
魚肥は、木綿・菜種の栽培に適して即効性の高い干鰯などが急速に普及した。
上方においては、紀伊生産のほしかが、兵庫や堺において魚肥市場を成立させていた。
本格的なものは寛永元年(1624年)に大坂永代浜に干鰯揚場を創設して以後である。
江戸においては、上方方面から房総半島に移住した漁民によって干鰯が作られて江戸に搬入された。
当初の関東における干鰯取引の中心は主産地であった上総・安房に近く、上方にも船便が通じた浦賀であった。
寛永19年(1643年)浦賀の干鰯問屋が江戸幕府の公認を受けている。
元禄8年(1695年)に深川に初めて揚場が設けられて以後、享保年間には深川界隈に4ヶ所の揚場を設置するに至った。
江戸は浦賀に対抗して新興生産地であった上総北部から下総にかけての九十九里浜沿岸の網元と結びついて、元文4年(1739年)に幕府より株仲間としての公認を受けた。
江戸の干鰯問屋の発展は目覚しく、特に宝暦年間の鰯の異常不漁に由来する不況下を乗り切って、没落の危機を迎えた生産地や他都市の問屋を横目に目覚しい発展を遂げた。
生産地間の争いにおける上総・安房の没落によって浦賀を圧倒した。
更に当初は生産者である網元に従属を余儀なくされていた生産地との関係も豊富な資金力による中小生産者の
前貸金・仕込金を通じた支配により、逆に房総や紀伊の網元達を圧迫して問屋制支配を確立した。
三陸地方や蝦夷地の生産地をも掌握して、「松前物」と呼ばれるニシン原料の魚肥の販売にも力を注ぎ、
幕末には干鰯以上のシェアを占めるようになった。
これに対し、生産地の網元や在地商人、他都市の問屋、領主権力なども天保の改革による株仲間廃止などを利用して江戸の干鰯問屋を攻撃して巻き返しを図る。
干鰯問屋は明治以後に近代的な肥料会社への転換まで続くことになった。
干鰯関連情報
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大漁節にみる鰯の大漁 

    大漁節をみると当時の鰯大漁の様子が手に取るようにわかる

銚子大漁節(銚子市HPより)

元治元年(1864)の春、銚子港は未曽有の豊漁で、港は鰯の銀りんで埋めつくされた。
この豊漁を祝うため、川口明神で大漁祭を催すことになり、
飯貝根浦の網元網代久三郎と飯沼浦の松本旭江と俳諧師石毛利兵衛の三人が、
松本家の離れ座敷「夏蔭庵」(夏蔭書屋ともいい現存)に集って歌詞を合作し、
常磐津師匠遊蝶が作曲し、清元師匠きん子が振付したものを、この祭礼で歌い踊ったのが起こりといわれてる。.

歌詞.
一つとせ 一番ずつに積み立てて川口押し込む大矢声 この大漁船
二つとせ 二間の沖から外川まで続いて寄り来る大鰯 この大漁船
三つとせ 皆一同に招をあげ通わせ船の賑やかさ この大漁船
四つとせ 夜昼焚いても焚き余る三杯一丁の大鰯 この大漁船
五つとせ いつ来てみても干鰯場はあき間もすき間も更になし この大漁船
六つとせ 六つから六つまで粕割が大割小割で手に追われ この大漁船
七つとせ 名高き利根川高瀬船粕や油を積み送る この大漁船
八つとせ 八手の沖合若衆が万祝揃えて宮参り この大漁船
九つとせ この浦守る川口の明神ご利益あらわせる この大漁船
十とせ  十を重ねて百となり千を飛びこす万漁年 この大漁船
十一とせ 十一日は潮がわり鯵鯖まじりの大鰯 この大漁船
十二とせ 十二のお船玉いさましく明日も三ぞう積むように この大漁船
十三とせ 十三、四つの小野郎奴メンパで鰯を通わせる この大漁船
十四とせ 十四の生網、船新造、あらすの艪櫂で漕き回る この大漁船
十五とせ 十五夜お月様夜に余る八手の鰯は昼あがる この大漁船
十六とせ 十六ササギは花ざかり八手の鰯は色ざかり この大漁船
十七とせ 十七・八の小娘があかねのたすきで塩はかる この大漁船
十八とせ 旗は白地を染めちらしこれこそ八手の大漁旗 この大漁船
十九とせ 九十九里浜から銚子浦粕たく煙が絶えやせぬ この大漁船
二十とせ この職大漁で来る職もまたも大漁するように この大漁船.

十番までの「大漁節」が正調であり、作品としても完成品です。
しかし、その銚子の知恵者がその続編めいたものを作り、宴席などで歌うようになったといわれています。
(注)
*一番ずつ(各船とも一回ずつ)
*積み立てる(積み込む)
*押す(櫓をこいで船を押す)
*大矢声(弓矢を射るとき出るうなりのようなかけ声)
*大漁の時…漁師が大声でそろえた声でホーリャー、ホーリャー)
*不漁の時…ただ櫓の調子をあわせるための小さな声で、エンヤー、エンヤー)
*二間の沖(夫婦ケ鼻から黒生までの海の総称)
*寄り来る(魚が集ってくる)
*招(鰯の大漁を知らせるための目印)
*通わせ船(鰯の運搬船)
*焚く(生鰯を煮る)
*三杯いっちょ(三杯=ヤッサ篭三つで本篭一つになる。
*いっちょ=一斗樽
*ヤッサ篭三杯の鰯を煮ると一斗樽一杯の油がとれる。)別の意味(油を入れる三斗八升入りの樽があって、
普通なら五杯でいっぱいになるのだが、大鰯なので三杯でいっぱいになった。またアグリ漁は三隻で一ケ統になることから)
*干鰯(生鰯をそのまま海岸の砂地に干して作る肥料のこと)
*干鰯場(ほしかを作るために生鰯を干す場所)
*六つから六つまで(朝六時から夜六時まで。ここでは朝から晩まで)
*粕割(生鰯を大釜で煮て、それを圧搾機で締めると〆粕ができる。それを今度割って天日に干すのである。
これを割ることを粕割という)
*大割(圧搾機で締められた固型の〆粕を木槌で荒っぽく割る)
*小割(荒っぽく割った〆粕を今度は手で一匹くらいになるように小さくほぐす)
*粕や油(〆粕の副産物として鰯油がとれる。〆粕や干鰯は肥料として、鰯油はカンテラや灯油用に使われた)
*八手の沖合(八手網船の漁労長)
*万祝(船主から沖合・漁夫達に贈られる大漁祝いの衣裳)

参考資料 歴史地理学調査報告第9筑波大学歴史・人類学系歴史地理学研究室銚子市HP所蔵資料ネット情報
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木版、石版、広告、他
木版のイメージ
木版

東京での売り出し広告



説明文がおもしろい。⇑画像クリックで拡大画像表示
木版



⇦�版刷りしたもの
船の運行表

木版



⇦�版刷りしたもの
石販


石版

木版
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「為取替一札之事」 考察
「為取替一札之事」    滑川家所蔵文書
   
為取替一札之事
安永元年(1772) 

この書状は高田村の船持惣代兼問屋宮内清右衛門等から野尻村滑川藤兵衛、彦太郎、小船木村与惣右衛門へ宛てた取り決め状である。
年貢米輸送を遅滞なく行うこと、干鰯等の魚肥荷物の請負方法や船賃について申し合わせされている。
(歴史地理学調査報告第9号P49筑波大学歴史人文学系 歴史地理学研究室)

銚子の地は1600年代に入ると関西からの漁民が往来し進んだ漁法が広まった。また干鰯や鰯粕は需要が高まり、新しい船荷の代表格となっていった。
旧来からの権益を守って商売をしてきた問屋の主な船荷は米塩木材などであったが干鰯や鰯粕の新しい船荷が加わったことにより、新規参入する問屋が出てきた。御米輸送に見られる公的商売に比して、新しい船荷(干鰯など)は私的色彩が強く新規参入しやすい状況が生まれていたと思われる。
また、関西移民主導による現銚子市街地(飯沼、荒生→新生、荒野→興野、芝等)の発展により、相対的に高田、野尻、小船木は地盤沈下していく中でこの地の 旧問屋は危機感をいだいていたと思われる。
それ故、自村のみならず関連する地域での新旧問屋で、船賃をめぐって権益を守るため協定が必要であったと思われる。(敏)
(注)
1772年は 田沼意次(53歳)老中となる年である。清右衛門家はまだ田沼意次の干拓事業に手を出していない。
千葉氏以来の権益を残し利根川沿いの河岸に権益を以って商売をしていた、まだ元気のよかった時代である。
参照:

1559年
千葉胤富より諸役免許状
1560年
房州・上総・下総三ヶ国味方中、商売不可有相違、若有横合者可成一行者也仍如件、海上胤秀カ判物)
従来の権益によらない新しい船荷として干鰯や鰯粕が登場し新しい問屋が誕生したことは転機の始まりといえる。
清右衛門家のその後:
(長沼干拓、河岸の権益譲渡、清左衛門、救済普請)
10世清右衛門は田沼意次の御殿医坂輪玄瑞の娘(八重子)を後妻に娶り干拓事業に手を出す。巨費を投じたが田沼失脚により多くの権益を失うことになったと推測できる。
田沼失脚後、後妻の父の田沼御殿医(坂輪玄瑞)は自刃におよび、家業への影響を避けるため、10世清右衛門は長男に清右衛門職を譲り、自ら清左衛門濱宅と名乗った。これは単なる隠居分家ではなく、影響力を残した形での分家であった。(自ら責任を取った形だが、お家の危機回避のための措置と想像できる。(敏)

◎長沼干拓(成田市長沼)で清右衛門との関連を示す資料がありましたらメール頂ければ幸いです


危機回避のためととれる理由:
清右衛門職を長男に譲ったが、天明の飢饉の際の
救済普請事業等、大きな事業は父である清左衛門濱宅が行っている。(家業の事、村役の事など分担したのであろうが、いずれにしても父である清左衛門の影響力はかなりあったと思われる)。父10世の没年は1808年(文化5年)72歳で、子11世の没年は1807年(文化4年)46歳である。地元古老が云うに「昔、宮清は2軒あった」。これはこの時の宮内清右衛門と清左衛門を指している。
清左衛門濱宅家は後妻の子が後を継ぐが子なく、一時絶えたが後に清右衛門12世の子秀三により再興される。
田沼失脚は家存亡の重大事件であった。その後の家運が傾く最大要因の一つとなった

(傍証)
伊能忠敬書状にみる高田清左衛門家  
伊能忠敬、長女妙薫あて「新地嫁とりに関する書状」の一部
「新地より中宿藤左衛門ヲ以
潮来宮本」平太夫娘を娵ニ貰ヒ申度旨、其方江」相談有之候ニ付、我等承知
致し申間数、」御あいさつ被成候得共、是非ニ願くれ候様」被相頼、無拠仰遺され承知致し候、」扨宮本家柄
高田清左衛門縁組之筋、前々ハ大家ニ而不相当ニ候得共、近年ハ困窮ニ」相成候よし・・・・
とある。   (千葉県史料近世編文化史料伊能忠敬書状22(3-2)
伊能忠敬も家勢が衰えたことを書いている。


高田清左衛門縁組之筋
とは高田村宮内清左衛門(清右衛門10世)のことである。
10世清右衛門の第4子高重が、潮来宮本家に婿入りし平太夫を名乗る。
  権益譲渡と救済普請
天明の飢饉の救済普請として行われた新川船入り場創築に関する資料から、それまで高田村においては本格的船入場がなかったことが書かれている。しかし、高田の衆による廻船はずっと以前から行われている。このことは権益のある津を利用しての商売が主であったことを裏づける。
清右衛門家の津の権益譲渡が同村内の問屋の場合は別として、そうでない場合は高田村の地盤低下となり、高田の衆にとって重大問題であったに違いない。また、自前の船入場を持つことは漁民にとっても念願であった。
その意味で天明の救済普請として行われた新川船入り場創築は単なる救済普請にとどまらず大きな意味を持っていたと考えられる。
だからこそ、創築なった新川船入場は 以後、村人達の協力により、数々の困難をのり越え維持管理されてきた。
しかし、利根川の浚渫工事により埋め立てられ、現在当時の面影は全くなく新川協力竣工記念碑水神様を残すのみである。
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廿里四方 江戸大地震并出火場所附
 
  地震類焼場所明細書之写并街道筋近郷聞書
江戸の大地震死者は4000人
:丸山火事とも呼ばれる
明暦の大火明暦3年(1657)。別名「振袖家事」。
(明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失する大火災。火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。
外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。江戸城天守はこれ以後、再建されなかった。火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。

安政の地震
安政2年10月2日(1855年11月11日)夜10時頃、八丈島付近を震源とするM6.9の地震が発生した。
江戸城の石垣が崩壊し本所や深川など下町を中心に死者約4000人、倒壊家屋約1万戸など大被害であった。
この地震で水戸藩主徳川斉昭の腹心、戸田忠太夫や藤田東湖が死亡した。
安政江戸大地震では、大都市の地震だけに多くの瓦版がつくられ、また震災前後の話を収録した地震誌も多い。地震自体による被害はそう大きくなかったものと推定されるが、直後に多数の火災が発生し、大火事となって死者は4000人となった。(1万人とも20万人とも書いているが恐らく誇大。振袖火事でも10万人。.
   出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
安政江戸地震を一般に「安政の大地震」と呼んでいるが、規模では前年の3連地震の方が巨大であった。
安政元年11月4日 M8.4 震源=遠州灘沖(愛知・静岡の南)『安政東海大地震』
安政元年11月5日 M8.4 震源=潮岬沖 (和歌山・徳島の南)『安政南海大地震』
安政元年11月7日 M7.4 震源=豊予海峡(大分と愛媛の間)
近畿地方では4日の地震の直後に5日の地震、四国地方では5日の地震の直後に7日の地震が起きてた。
この3つの地震の死者は合計で軽く1万人を越えている。
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仙台伊達関連資料
--( 目 録 )
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松平陸奥守
仙台伊達藩主八~十代か
松平陸奥守斉村か周宗



松平陸奥守


松平政千代
伊達藩主九代(後見で藩主に)
松平陸奥守政千代周宗
政千代は幼名、14歳没
(1796~1809)



松平筑前守


栄心院
伊達藩主十一代伊達斉義の
側室(1823~1861)
栄心院の綵姫 微子( 陸奥仙
台藩主伊達斉邦(12代)の室 )











他にも15~6点あったが保管状態極めて悪く判読不明。
何に際しての目録かわかっていない。
陸奥守のものが複数あることや、政千代と栄心院の生きた時代が重複しないことから複数回の目録と思われる。 
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 古文書 )
仙台正宗様の御米運送 関連事項
若狭守書 彦左衛門(1616年)
仙台より参候ハ、木材木其外何にても、
河内之」船賃世上並候は、
たか田之者共ニ船を借り申候様ニと、
仙台より上せ申候衆ニ、堅可申付候間、
ばうちゃう(注1)にて江戸まで
御届致候 船賃は何も之なみ□御取入候 
此度天下様之御材木参候ニ
高田之衆、才覚被仰候ニ付て如此申入候以上
元和二年 四月十四日

佐々若狭守(花押


高田彦左衛門殿(注2)

正宗様之御米又ハ御材木ちゃうしえ相登申候へハ
御運賃之儀ハ、いたこ、ほこたるみにて候へハ
高田衆ニつませ可申候 
此度川せにて、天下様御材木のぼ(虫)かね申候を、
高田衆一さくを相すて、のほせ被申候侭、
川内之なみより、運賃たかく候ヘハ、つませ申間敷候

たか田:現千葉県銚子市高田町
ちゃうし: 銚子  
佐々若狭守:仙台藩士と思われる。

注1: 房丁(米100俵ほどつめる小回りの利く船)
注2: 高田村、宮内家3世5世のみ彦左衛門を名のる)
解読 (伊能忠敬研究会 安藤由紀子氏による)
仙台木材木運送書(1620年)






元和六年二月甲(1620年)


高田彦左衛門 殿

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 ( 拝領品 )
飾りのミニセット 伊達家紋(笹すずめ)
膳上面
杯(大) 杯(中)
杯(小) 拝領品
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 第1次長州攻め記録の写
  長州征討は、1860年代に、江戸幕府と毛利氏長州藩の間で2度にわたって行われた戦いである。
第1次は幕府側の勝利に終わった。第2次征伐は幕府側の失敗により、幕府の武力が長州藩と薩摩藩を抑える能力が無い事を示す結果となった。
第1次長州攻め
長州藩は尊皇攘夷・公武合体の倒幕思想を掲げて京都の政局に関わっていた。しかし1863年(文久3年)に孝明天皇・公武合体派の公家・薩摩藩・会津藩による8月18日の政変により、京より追放される。1864年(元治元年)には藩主父子の赦免などを求めて京へ軍事進攻する禁門の変が起こると、朝廷は京都御所へ向かって発砲を行ったことを理由に長州藩を朝敵とし、幕府に対して長州征討の勅命を下す。幕府は前尾張藩主徳川慶勝を総督、越前藩主松平茂昭を副総督、薩摩藩士西郷隆盛を参謀に任じ、広島へ36藩15万の兵を集結させて長州へ進軍させる。
一方、長州藩内部では下関戦争の後に藩論が分裂し、保守派(俗論派)が政権を握る。
征長総督参謀の西郷隆盛は、禁門の変の責任者である三家老(国司信濃・益田右衛門介・福原越後)の切腹、三条実美ら五卿の他藩への移転、山口城の破却を撤兵の条件として伝え、藩庁はこれに従い恭順を決定する。幕府側はこの処置に不満であったが、12月には総督により撤兵令が発せられる。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


下の資料は第1次長州征伐に勝利した幕府側の記録の写である。

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解読:古文書研究家 伊藤栄子氏による-
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解読:古文書研究家 伊藤栄子 氏
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  千葉氏との関係を示す資料

田中玄蕃家にあった資料のコピー(田中智子氏より頂戴する)








田中智子氏持参の
由緒書き
父方:写真右
母方:写真左














 
  宮内清右衛門13世定彦の娘サダが銚子田中玄蕃12世謙蔵に嫁す際に父方と母方宮本茶村の娘)の由緒書を持たせた。これは其の写(明治時代?年)のコピーである。(写:手書き写、コピー:機械写)
由緒書は田中玄蕃家子孫の田中智子氏(サダは曾祖母)より平成18年3月18日に頂戴した。「我が家にあるより、こちらにあったほうが」といって持参された。
田中玄蕃家:銚子飯の草分け百姓。銚子飯沼村名主で豪商。ヒゲタ醤油の創始家として知られる。
10代田中玄蕃:10代田中玄蕃:弘化2年~昭和11年(1845~1936)92歳:幼名は亀次郎、1859年元服して謙蔵、諱 貞穆(さだあつ)。号は 春耕。幼くして母をなくす。兄直衛と鹿島の吉川天浦(宮本茶村の門人、吉川3兄弟(天浦、君浦、松浦)の門に入る。天浦が無くなると吉川君浦(銚子新生村に婿入りして宮内君浦)を師とした。
1862年文久2年、長男直衛は20歳の若さで、はしかで亡くなる。
1864年天狗党争乱の鎮圧に兵糧運送方を務める。
1864年元治元年海上郡高田村宮内清右衛門定彦の長女「さだ」と結婚。
(仲人は宮内君浦)
1867年慶応3年「人別書上」によれば謙蔵33歳、女房さだ18歳、謙蔵娘当歳とある。また職人、雇い人とも人数およそ80人で半数が住み込み、あるいは邸内に起居で40人が通勤者である。かなりの大所帯であったことが分かる。
1868年家督を継ぎ御用達取締。直衛と改名。
1874年千葉県海上郡学区取締、明治10年(1877)千葉県会代議人。
明治20年海防費献納により黄綬褒章。
1900年ヒゲタ醤油宮内庁御用達。総武鉄道、銚子遊覧鉄道、電話交換事業など開業に尽力。1914年大正3年、ヒゲタ醤油とジガミサ醤油とカギダイ醤油を合同して銚子醤油合資会社を設立。取締役社長に。
宮本茶村が結びつけた婚姻
田中謙蔵の妻は海上郡高田村宮内清右衛門の長女「さだ」だが潮来の考証学者宮本茶村の孫である。仲人の宮内君浦は茶村の門下生で謙蔵の生涯の師である。
茶村がご縁の縁組と云えないだろうか。
因みに、「大日本国語辞典」の著者「松井簡治」は君浦の実子である。
玄蕃日記:元治元年(1864)より
11月17日
「昨夜、主水様入来。相談の上 来る19日 結納の儀 棟梁三九郎 荷宰領にて 祝儀物差送り置き、聟入りの儀は 来春罷り出候積りいたしき趣 三九郎を以って
 高田宮内氏へ 今日 申し入れ候事」
*主水様とは新生峯神社神主で新生村名主・宮内主水(君浦)のことで、謙蔵(12代田中玄蕃)の師であった。
*高田宮内氏:高田村宮内清右衛門のこと。
*聟入り:嫁実家への顔見せの事。
12月7日
婚姻に付き 祝儀入来 高田宮内氏 并びに 嫁 その外 夜五つ前着。 
委細 別紙之有り。 明け六つ時 微宴 乗船」
*後の12代田中玄蕃謙蔵の婚姻
この婚儀の仲人は宮内(吉川)君浦
参考:銚子市史、関根昌吾氏の銚子市民講座資料「古のてうし玄蕃日記をひも解く

(父方)の資料

   宮内清右衛門家が千葉氏(親胤以降に)に忠節を尽くしてきたかを書いている。
千葉介親胤:千葉常胤より21代、桓武天皇より34代にあたる。

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◎田中氏持参資料と当館所蔵古文書の対比

田中氏持参資料
(写に書かれている内容)
対応する事項(所蔵資料より)
(当サイト古文書参照されたし)
  宮内右京亮(1世)
千葉介親胤公御代ニ、
一番軍約之頭ニ被仰付
千葉介親胤公御出陣之時分モ
先陣仕高名奉仕者也
  第1世:秀行公 : 配は宮内清右衛門の女
東氏より出て宮内氏ヲ継ギ千葉介親胤公の部将トナリ海上郡ニ
居ル
舟木台村右京屋敷ト呼ブ畠地アリ、是レハ右京秀行公
法謚道印  配法謚妙慶  墓石:高田地蔵院にあり(以降も同じ)
  宮内形部少輔(2世)
千葉介富胤公御代ニ東庄森山城番被仰付
其外色々御用ホ御近所相勤奉仕者也
  第2世:性薫公(刑部少輔性薫公)秀薫:東光寺過去帖
法謚性薫    配:法謚妙薫
1557年千葉介親胤暗殺される
1559年(永禄2年12月16日)千葉介富胤より「分国之中町役
1559年高田村に地蔵院建立
1560年(永禄3年12月10日)海上胤秀より
 「房州上下総三カ国於味方中商売不可有相違」の特権」
1570年(永禄13年6月2日)沼闕城「船1艘の役
1570年(元亀元年11月)宮内孫三郎元服状
1572年(元亀3年正月)三川田状
1573年(天正元年8月)高田野尻商人網代状
1573年(天正元年8月)与三郎網代状
1573年東光寺に山門寄進
  宮内彦左衛門尉(3世)
千葉介良胤公御代ニモ
御前近ク被食諸古又
御用被仰付奉仕者也
  第3世:正蓮公彦左衛門:高田村に帰農
1616年(元和2年4月14日)
若狭守書 彦左衛門
1620年(元和6年2月仙台米材木運送書
1621年(元和7年8月9日)没   法謚正蓮 配:法謚妙金
  宮内清右衛門尉(4世)
千葉介邦胤公御代ニモ
父彦左衛門?前御近所
ニテ相勤則高田村ニ居住
御奉仕者也
  第4世:正徹公定徹、 帰農後清右衛門と名のる
旧臣の子孫海上郡足洗村ニアリ皆石井ヲ以ッテ氏トスル。

1631年(寛永8年11月)千葉介重胤より
宮内清右衛門官途状
1635年(寛永12年正月2日)没  法謚正徹 配:法謚妙善
  宮内清右衛門尉(5世)
千葉介重胤公七歳之御
時佐倉城御?落也其
ヨリ浪人メ高田村ニ居住
  第5世:正喜公 諱定喜通称彦左衛門 
1647年(正保4年11月23日)没  本覚院正喜  配:月涼正映
  宮内清右衛門尉(6世)
千葉介知胤一代浪人
内諸人ニ勝忠節一代見
届ケ仕者也
年老メ入道
仕正智権?師ト号
  第6世:正智公、諱定勝 通称清右衛門、年19家政を継ぐ
1649年菩提寺(地蔵院)を邑に解放
1683年(天和3年10月2日)没 法謚歸道正智 配:法謚哲鏡妙月
  宮内清右衛門尉(7世)
千葉介英胤浪人内父代ニ 不相?誠ニ諸人ニ勝忠節仕者也
  第7世:正真君 諱定次 通称清右衛門
1697年(元禄10年6月10日)没 法謚常清正真 配:法謚秋月妙本

日本名所客遊詞草にみる田中玄蕃家 
 筆者は田中玄蕃12代謙蔵の妻サダの弟宮内猪三郎(号は赤城)
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圓福寺(銚子市)本堂再建に絡む寄進者より高田村関連を拾う
 
  円福寺本堂再建は宝暦12年(1762)~安永6年(1776)に行われた
寄進者リストをみると地元飯沼村名主当時最有力者であった田中玄蕃を筆頭に檀家のみならず宗派を超え、
各界各層(商人、漁師、連、講など)、また近隣町村から江戸にまで及んでいる。
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寄進者リストより高田村関連を拾うと
金三両 高田村中
金六両  丸太150本・諸白壱樽・醤油8樽 高田村  宮内清右衛門
仏前御備  開帳中10日ツ、御盛替   高田村  宮内清右衛門

 

安永6年(1776)
仏前御備 開帳中10日ツ、御盛替    高田村  宮内清右衛門

歴史地理学調査報告第9号別冊P40、48 筑波大学歴史人文学系 歴史地理学研究室より
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 清左衛門濱宅由来


清右衛門10世正壽
の墓石:
表面の一部分




正壽墓石の背面
後妻:八重子の記述
浄 遠州浜松
坂輪弦瑞の2女


銚子市高田町
(延命山地蔵院) 
   清左衛門濱宅は「旧高田村新川船入場創築由来記」に因れば、
 「高田村10世清右衛門定賢(正壽)大志ありて力を公益に致す長沼手賀沼印旛沼三沼
の開拓の志し、後室八重子の父(老中田沼の侍医)坂輪玄瑞を介し
老中田沼意次公に
請うて先ず長沼開墾に着手し巨資を投入するも事業容易ならざるに田沼失脚により宿志
果さずして長男定膂に清右衛門職を譲り名を清左衛門と改め濱宅と称した」。
これにより定賢は10世清右衛門にして清左衛門濱宅の祖(隠居分家)となった。
(干拓事業に関する資料は残っていない。当主交代は家を守る為の策だったようだ) 
更に由来記によれば
(中略) 「この時天明の飢饉に遭遇し清左衛門、本村に碇泊所なきを患となしたが
この機に意を決し救助普請を起こし以て窮民を賑恤する。」 (以下略)
清左衛門は長男より長生きしている。名主としての公的仕事は清右衛門(長男)が行い、
港作りのような大きな事業は父である清左衛門が行っていたのではなかろうか。

清左衛門濱宅一時絶える:
定賢の後室八重子の子「定露」が清左衛門濱宅を継ぐが子なく一次絶える。

11世定賢の長男正諄は12世清右衛門を継ぎ、姉ウタは潮来宮本平太夫に嫁したが子
なく3男高重が宮本家に婿入し10代宮本平右衛門高重となる。(考証学者宮本茶村は
高重の2子)。次男三九郎は家を分け仲宅と称すが後に絶えた。

清左衛門濱宅再興:
12世清右衛門胤繁(正諄)の長男定彦は江戸に出て昌平黌
塩谷宕陰に学び近未来
坤興年表を編述。2男俊二は
鈴木春山に蘭学を学ぶも20歳で病死。3男秀三は親と
家業を専念するが長男定彦が戻り清右衛門十三世を継いだため、分産創業し一時絶
えた濱宅を継ぎ
濱宅を再興し、廻船・酒造・金融などの事業を行う。
(地元の人が云う「昔宮清が2軒あった」とは清右衛門と清左衛門のこと)

明治の新政府下では清右衛門(定彦)が新治県の副区長、区長を務めた。秀三は戸長
を務め、地租改定では秀三の長男克太郎
(注)と共に尽力した。漢詩を能し号は友鴎。
克太郎の代で火災や酒造の失敗などが原因で高田での事業を諦め、東京で金融業、
漁業などの事業を行うが明治10年代で止める。
(注)克太郎の妻は伊能七左衛門の
娘多恵で、地図作成に対する思い入れは想像に難くない。後に椎柴村利根川岸地図を
作っている。
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旧高田村新川協力竣工記念碑


記念碑碑文原稿
前半の碑文は下の「旧高田村新川川船入場創築由来」を元に書かれている
 
新川協力竣工記念碑

 旧高田村船若中水神(左奥記念碑)
 N:35°45'47″、 E:140°46’6″
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 旧高田村新川川船入場(高田河岸)創築由来(当館所蔵)
  「高田村名主清右衛門定賢が長沼、手賀沼、印旛沼の干拓を志し、後妻の父である侍医坂輪玄瑞を介し老中田沼公に請うて長沼開墾に着手し巨資を投ずるも事業容易ならざるに田沼失脚により宿志果たせずして止む」とある。責任をとって清右衛門職を長男に譲り清左衛門濱宅と称した。舟入場は清左衛門が天明の飢饉の救助普請として行った。以後は村人達により維持管理されてきたが利根川岸の埋め立てにより消失した。下図は地租改正時に新治県に提出された高田村絵図である。図の下部舟入場が読める。

当館所蔵新治県提出の控図(当館所蔵)

左:銚子方面  右:佐原方面
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日本名所客遊詞草(上下合冊)
   筆者 宮内猪三郎
清右衛門13世(定彦)の3男として生まれる。名は猪三郎、赤城と号し、赤城 宮内静。東京に寄宿鳴門英学塾に学ぶ。19歳の時建白書を提出している(国立公文書館)。後に軍に出身(陸軍、清国に)
著作:日本名所客遊詞草、清国事情探検録、新天地など
「日本名所客遊詞草」は紀行文である。
日本帰国後の明治19年春、東京神田の寓居を出発、諸国歴遊の旅に出る。各地の名家に宿し、名所旧跡に触れて思うことを記録して漢詩を作る

〇猪三郎19歳、鳴門英学塾学生の時建白書を提出している。
  題跋に見られる人物:
勝海舟、李徑芳、小野湖山、栗本鋤雲、内藤耻叟、青山鉄槍、三島中洲、南摩羽峰、吉川松浦、並木栗水、森槐南、松岡友鹿、宮内君浦、須田桐蔭、井上基昌、江川英武、芳野世徑、佐野進、伊集院兼雄、國分青崖、村岡棠陰、重城青崖、白石長治、中村武一、本田種竹、野口勝一、城井壽章、野村茂樹、薦田卯一、三谷耕雲の名があり、交友の広さと人脈を見て取れる。(全体として漢詩、清国関連者が多い)
 
     
   
題跋に登場する人物   
  勝 海舟(かつ かいしゅう)文政6年(1823年)~ 明治32年(1899年)80歳。通称は麟太郎(りんたろう)。
本名義邦 、維新後改名して安芳。号は海舟。咸臨丸でアメリカ・サンフランシスコへ渡航。帰国後、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。軍事総裁として全権を委任され、幕府方を代表して西郷隆盛と会見、江戸城を無血開城にみちびく。贈正二位。法名:大観院殿海舟日安大居士。
  李 経芳(り けいほう)1855年~ 1934年)。安徽省合肥磨店出身。字は伯行、号は端甫。清末の官僚・外交官。1890年より駐日公使に就任。1895年、李鴻章とともに下関条約を結び、台湾割譲の全権委員となった。1905年に商約大臣となり、1907年には駐英公使となった。
  小野湖山 (おの こざん)文化11年( 1814)~(1910)97 歳。幕末-明治時代の漢詩人。近江出身、名は巻・長愿、字は懐之・士達・舒公、号は湖山、梁川星巌,藤森弘庵に師事。
  栗本 鋤雲(くりもと じょうん)文政5年(1822)~ 明治30年(1897)76歳。幕末期の幕臣。幕府の外国奉行。名は鯤。初名は哲三。瑞見。通称は瀬兵衛。1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会訪問中に大政奉還と江戸幕府の滅亡を知る。維新後は新政府に仕えることなジャーナリストとして活躍
  内藤耻叟(ないとう ちそう)文政10年(1827)~ 明治36年(1903)77歳。明治時代に活躍した歴史家、国語学者。著書に『徳川十五代史』『安政紀事』など。本名は正直。水戸藩士・内藤氏を継ぐ。会沢正志斎、藤田東湖らに師事。藩内論争に巻き込まれて謹慎隠居。後に講道館教授に任ぜられるが、再び藩内の論争に巻き込まれて入獄。その後、幕末期の混乱に乗じて水戸を脱出し、放浪生活を送る。後、小石川区長、群馬県中学校長、東京大学講師、帝国大学文科大学教授。
  青山 鐵槍(あおやま てっそう)文政3年(1820)~明治39年(1906)87歳。水戸藩の弘道館の訓導、弘道館教授頭取代理、彰考館権総裁。維新後、東京府庁地誌課、修史局。辞職後は、旅行と著述に専念。清国公使・何如璋の書記官黄遵憲と親交があり、黄遵憲の『日本国志』著述の資料協力をする。鉄槍の主著『皇朝金鑑』の序文を黄遵憲が書いている。明治20年(1887年)、全国の名勝をまわって書いた紀行文、『大八州遊紀』を出版。  
  三島 中洲(みしま ちゅうしゅう)文政13年(1831)~ 大正8年(1919)90歳。備中(現岡山県)出身。名は毅、字は遠叔、通称、貞一郎、別号に桐南、絵荘、陪鶴、陪龍、また風流判事。漢学者、昌平黌に入り、佐藤一斎安積艮斎に学ぶ。藩校有終館会頭に就任。昌平黌詩文掛。漢学私塾虎口渓舎を開く。38歳のとき奉行格となり洋学総裁兼務。維新後、東京高等師範学校教授、新治裁判所長、大審院判事、東京帝国大学教授、東宮御用掛、宮中顧問官、二松學舍大学の前身となる漢学塾二松學舍の創立者。
  南摩綱紀 (1823~1909.4.13) 87歳。会津藩士。若松に生まれ、名は八之丞、号は羽峰。江戸昌平黌に学ぶ。詩経・洋学を究める。33歳関西諸州を歴遊、帰って洋学舎を創設。1862年(文久2年)樺太警備、また北海道東岸80里間の幕領代官を務める。戊辰戦争には大坂に潜み、また奥羽列藩の間を走り情報を収集。開城後、越後高田に謹慎、許されて文部省東大教授、東京高等師範教授など歴任。従四位勲四等。
  吉川松浦 吉川3兄弟(吉川天浦、君浦、松浦)、漢学者、潮来宮本茶村に学ぶ、兄天浦の後を継ぐ。
  並木 栗水 御所台地区に生まれ、朱子学者。多くの子弟が栗水を慕って入門。門人から新村出、林泰輔などを輩出。教える内容は四書五経・日本史・十八史略・史記・五漢書等奥深いもの。
  森 槐南(もり かいなん)文久3年(1863)~ 明治44年(1911)。漢詩人。名古屋出身。名は公泰(きみやす)、字は大来(たいらい)、通称は泰二郎、別号は秋波禅侶(しゅうはぜんりょ)・菊如澹人(きくじょたんじん)・説詩軒。枢密院属式部官などを歴任、伊藤博文に愛され各所に随行、ハルピンで博文が狙撃された際、被弾。その傷がもとで亡くなる。
松岡友鹿 漢学者、詩人。潮来宮本茶村に学ぶ
  宮内君浦 吉川3兄弟(吉川天浦、君浦、松浦)銚子宮内氏を継ぐ、茶村の「双硯堂詩集」を編纂する。『大日本国語辞典』を編纂した松井簡治の父、銚子川口神社に「君浦宮内先生頌徳碑」がある。
 須田桐蔭 情報お待ちしてます。
 井上基昌 情報お待ちしてます。
   江川英武(えがわ ひでたけ) 嘉永6年(1853)~昭和8年(1933)80歳。第38代(最後)の韮山代官、韮山県知事。第36代韮山代官江川太郎左衛門英龍の5男。
  芳野世経 (よしの つぐつね) 嘉永(かえい)2年(1849)~昭和2年(1927)79歳。江戸出身。明治-大正時代の政治家。東京市会議員,東京府会議員,同議長。東京府教育会長,警視庁防疫評議員などを歴任。私学蓬莱学校を設立。明治23年衆議院議員
 佐野進 情報お待ちしてます。
  伊集院兼雄日本軍将校による手書き地図作成メンバーの一人(アメリカ議会図書館所蔵)。1879 年(明治 12)清国差遣。1881 年(明治 13)[工兵大尉]、帰国。1882 年(明治 15)清国差遣。1883 年(明治 16)清国漢口駐在、1886 年(明治 19)日帰国。
  青崖山人 国分(こくぶ)青崖。漢詩人、日清戦争に日本新聞から派遣されて遼東半島に従軍し、山縣有朋大将の帷幕に参じた。
  本田種竹 1862-1907 阿波出身。名は秀。字は實卿。通称は幸之助。明治17年(1884)、東京に出て官途についく。明治32年中国に漫游。37年、官途を絶ち詩道を友とする。詩人として、大沼枕山、森春涛、森槐南、向山黄村らと交わる。国分青崖の日清役従軍の後を請けて新聞「日本」の漢詩欄の選者となる。正岡子規とも親交を結ぶ。槐南、青崖と並び明治末期詩壇の重鎮。 詩集には「懐古田舎詩存」六巻。「戊戌游草」「梅花百種」などある。

  野口勝一 明治時代に政治家、ジャーナリスト。自由民権運動家、茨城県会議員『茨城日日新聞』の社長兼主筆と茨城県内での活動から離れ上京し、農商務省に勤務。後、衆議院議員を三期。
 村岡棠陰 情報お待ちしてます。
 重城青崖 情報お待ちしてます。
 白石長治 情報お待ちしてます。
 中村武一 情報お待ちしてます。
 城井壽章 情報お待ちしてます。
 野村茂樹 情報お待ちしてます。
 薦田卯一 情報お待ちしてます。
 三谷耕雲 南画家? 情報お待ちしてます。
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宮内猪三郎の建白書(国立公文書館蔵)

(2)
 
(1)

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(4)
国立公文書館所蔵資料マイクロフィルムより・・・・・情報提供  茨城県 〇〇様 

治安策(新治県出身英学塾生宮内猪三郎)
第二百九十九号
?明治七年九月十五日?年
                     臣 宮内猪三郎再拝恐慴頓首伏奉
治安策
    九
二百九十九号
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
新治縣下下総国海上郡高田村第四十一宅農宮内清右衛門第三男東京府下第二大区二小区露月町三十五番地鳴門義民英学塾寄留学生當甲戌九月満十九年宮内猪三郎恐擢恐擢頓首頓首再拝再拝伏上書干

今上皇帝陛下恭惟  陛下聖徳高明上副天心下應民望徳澤既加洋夷来服如山如川大慰鄙懐 臣猪三郎 固碌碌庸劣  陛下一無所採尚仰恃眷思不避斧鉞輙以上言蓋富国強兵之策者無若駐遊逸民無若使民無怨心治此二者之街有数多一則盛大宮府之権也一則厳當罰也一則撰其材任其職也一則撫窮民也今也乃窮民過半也一則廃娼妓歌妓戯子談客之役而帰各千賈農工也一則不強習擬西洋諸国之風也若比則民逸情怨心
一無所有以臣猪三郎井蛙見且然况於  陛下乎顧蓋夫

陛下定豫有此見焉而者乃臣猪三郎上言之真是空空妄言而己雖然臣猪三郎亦生千豊蘆原中飲豊蘆原之水食豊蘆原之草生畜也乃飯令属空言且何爲牧者得不上言之乎是故先者上言策之核畧?以下細密欲上言之也乃逸民在国乃国国益哀怨心在民乃炊民無休故不治二者則富国強兵何日得成哉此二者並行而不相悖者也兵強則富国冨則兵強雖然尚干北二者恕有盈虚消長之憂故監大省府之権而以厳賞罰褒題恵窮民使其材得其所也今也冨者乃住瓦屋酌醇醪飽美食貧者自暁至宵苦艱力耕且糟糠不得飽皆同雖生干豊蘆原之民其不斎何哉而較貧富之多寡以貧者為多耳故止歌舞之輩不沈溺西洋擴獰之風而後制民乃民応如影響於形声也焉制之在励之励之即者税斂而在厳重賞罰褒題而己雖欲行之貨財不充多乃不能也得貨財葢有術臣猪三郎幼禿之時座賎之側聞北海道之海中鯨鯢多而米国船来捕之其利頗多矣然者乃    朝廷別遍自今徴募
海内之困民逸民分加之千海陸両軍兵籍以所加千海軍籍之其民干戈休閑之際趣留干其地捕之紱油或運輸千海外或充国用或屠鰔漕千国内乃其利之多可知也是其一術也或墾国内官有之林叢原野為牧場築兵営千其中以所加千陸軍籍之其民之畜巨萬牛羊干戈休間牧之或別設立女工場千其便宜之地遍募窮女逸女常使之織?鮫酪事干其場而其所得之酪及?亦或運漕千海外又備千国用則其利顧可不劣干鯨鯢之利也是其一術也若此而得許多貨財而施賦之千大小窮民或設脩身学校千諸処以産隙使兆民講習仁義禮智之性理率土之民帰之若水流千卑也當此特省府制民如一心於耳目也焉臨啓惶惶挟胡任懇禱伏冀

陛下為国爲 尊察 臣猪三郎杞憂垂   尊寵容之容之欽請以此説
  無為虚言伏願
陛下以此拙萹勿為拙萹臣猪三郎不学無識文辞不具尚
陛下不以文辞而採摘此鄙説之意則臣猪三郎幸莫甚於之恐々擢擢千拝頓主首
主首伏祈
尊大察不畫
 
宮内猪三郎:新治縣下下総国海上郡高田村第41宅農宮内清右衛門第三男東京府下第二大区二小区露月町三十五番地鳴門義民英学塾寄留学生當甲戌九月満十九年宮内猪三郎とある。 日本名所客遊詞草の著者である。