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最終更新日
2017/0101


 
扇 (おおぎ)
Ver-20170222
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梁川星巌


寛政元年~安政5年
(1789)~(1858)


江戸時代後期の漢詩人
名は卯、字は伯兎。
後に名を孟緯、字を公図と改めた。
通称は新十郎.号は星巌
朝川善庵


天明元年~嘉永2年
(1781)~(1849)


江戸後期の漢学者・儒学者
名は鼎、字は五鼎
号を善庵・学古塾と称す。
藤田東湖


文化3年~安政2年
(1806)~(1855)

幕末に活躍した
水戸藩の政治家、水戸学の学者
藩主斉昭の信を得て藩政に活躍。
弘道館の創立に貢献、
天保の改革を推
宮本茶村


寛政5年~文久2年
(1793~1862)

漢学者。潮来村庄屋。
後に郷士にあげられる。
名は元球・玄球。字は仲●(艸+勿)
通称:尚一郎。号は茶村・水雲(晩年)
双硯堂・三香社・鞏黄斎
吉川天浦


漢学者、吉川3兄弟の長男
鹿島則文の師、
.
(注) 鹿島則文 
67代鹿島神宮宮司
46代伊勢神宮大宮司
神宮皇学館を開学に尽力
吉川松浦


漢学者、吉川3兄弟の3男
早世した吉川家を継ぐ



日時計



伊能忠敬の嫡孫の
幕府天文方
伊能忠誨が
足立重蔵に注文した
扇6本の内の1本


20歳にて夭折する


詳細釦で
波止場遠景



この扇の裏面は
下の「湊崎町岩亀楼夕景」
したがって
同年代頃の横浜波止場風景と
推察される。
1859~1866年あたり
湊崎町岩亀楼夕景

幕府公認の遊廓(岩亀楼)

安政6年(1859)6月2日、
日米通商条約によって
横浜が開港されると、
多くの外国人が住むことになり、
外国人のための遊郭が作られた。
(現在の横浜公園あたり)
これが湊崎(みよざき)町で、
特に目立ったのが、岩亀楼です。
岩亀楼を含め港崎遊郭は、
慶応2年(1866)の火災により
消失しました。
瀧和亭


天保3年~ 明治34年
1832~(1901年)

南画家。
江戸生まれ。名は謙
字は子直、別号は蘭田

寺門静軒


寛政8年~- 慶応4年
(1796)~(1868)

幕末の儒学者。諱は良。
字は子温。通称は弥五左衛門。
克己・蓮湖という号も。
水戸藩御家人の子として生まれる。
江戸の風俗を記した『江戸繁昌記』を
執筆する。
風俗を乱すものとして江戸追放となり、
各地を流転。
晩年、現埼玉県熊谷市に私塾を開く
谷 文晁


宝暦13年~天保十一年
(1763)~(1841)

江戸後期の日本の南画家。
文晁派の祖。名は正安。
字は文晁のほか文朝、子方。
通称は文五郎。号は写山楼、画学斎、
無二、一恕、文阿弥。
田安家家臣で漢詩人の
谷麓谷の子
江戸下谷根岸に生まれる。
10歳頃狩野派の加藤文麗に学び
19歳頃中山高陽の弟子
渡辺玄対に師事。
川田甕江(剛)
天保3年~明治29年
(1830)~(1869)

幕末・明治初期を代表する漢学者
幕末の松山(板倉)藩士。
備中高梁出身。名は剛、字は毅卿、
号を甕江という。
初め山田方谷に学び、江戸で佐藤一斎門下で学問を修めた後、藩校有終館で教壇に有終館会頭。
維新後、宮内省諸陵頭、博物館理事、貴族院議員、文学博士、学士院会員。

新岡旭宇
天保6年~明治37年
(1835)~(1904)

書家。幼名は虎八郎、字 公徴、
通称 衛、
号 旭宇・大海・静斉・玉翁
代々弘前藩士で書家。
藩校稽古館で蘭学を修め、上田流書家工藤彦四郎に学ぶ。
弘化四年江戸に出て、寛永寺春性院に寄食し、衆僧に書を教授。
維新後は中国を漫遊し、明治17年に帰国後は、下谷根岸に住んだ。
西田春耕弘化2年~明治43年
(1845~1910)

日本画家。名は峻、字名は子徳。
通称、俊蔵。
号は西圃のち春耕・腐翁。
東京入船出身。
魚住荊石・高久隆古・山本琴谷に師事。
     


 



   

梁川星巌(やながわ せいがん)

政元年(1789) ~ 安政5年(1858)、江戸時代後期の漢詩人
美濃国安八群(現在の岐阜県大垣市曽根町)の郷士の子に生まれる。
名は「卯」、字は「伯兎」。後に、名を「孟緯」、字を「公図」と改めた。通称は新十郎。号は星巌。
文化5年(1809)に山本北山(注①)の弟子となる。
文政3年(1820)に女流漢詩人・紅蘭と結婚。紅蘭と供に全国を周遊。江戸に戻り玉池吟社を結成した。
梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内らと交流があったため
(注②)安政の大獄の捕縛対象者となったが、その直前(三日前といわれる)コレラにより死亡。星巖の死に様は、詩人であることに因んで、「死に(詩に)上手」と評された。
妻・紅蘭は捕らえられて尋問を受けるが、翌1859年に釈放された。出身地の近くの岐阜県大垣市曽根城公園に、妻・紅蘭との銅像がある。
潮来・銚子に遊ぶ
潮来宮本茶村(山本北山門下、茶村の詩友)宅に滞在し、利根川を下り銚子に遊んでいる。
(銚子浄国寺にも来ている・現住職談)
注①: 山本北山(やまもとほくざん)宝暦2年(1752) ~ 文化9年5月18日(1812年)
江戸時代中期後期の儒学者名は信有、字を天禧、通称 喜六、憙六、号は北山、別号に考経楼主人、学半堂逸士、奚疑翁、竹堤隠逸などある。
北山門下十哲:太田錦城 梁川星巌 小川泰山 山中天水 朝川善庵  宮本篁村 宮本茶村 大窪詩仏 柏木如亭雨森牛南
注② 明治維新をもたらした下級武士たち(吉田松陰、梅田雲浜、頼三樹三郎(山陽の弟)、西郷吉之助(隆盛)らのパトロンであったといわれる。
 


朝川善庵(あさかわ ぜんあん)

江戸後期天命元年(1781)~嘉永2年(1849)の漢学者・儒学者(折衷学派)。
名は鼎、字は五鼎、号を善庵・学古塾と称す。
折衷学派の儒者片山兼山(かたやまけんざん)の末子であるが、医家朝川黙斎の養子となり、朝川姓を名乗る。
12歳で折衷学派の山本北山に学び、松浦侯・藤堂侯などの諸侯から賓師の礼を受けた。
幕府の依頼で、下田に漂着した清国船員と筆談する。その後、寛政10(1798)朝川黙斎に伴われて京阪・長崎・薩摩に遊学する。
江戸に帰って門弟に教授し、後に松浦侯の儒臣となる。
『論語集説』八巻・『左伝諸注補考』八巻・『荀子箋釈』八巻・『善庵文鈔』八巻・『善庵詩鈔』二巻等
墨田区常泉寺に墓地がある。

伊能忠敬との関係
伊能忠敬の内妻で忠敬測量の助手でもあった栄(大崎栄)も山本北山門下であり、善庵と同門である。
北山が亡くなると、栄は朝川善庵のもとに身を寄せたといわれる。
山本北山門下で梁川星巌、大窪詩仏、宮本茶村などと詩友である。
潮来の宮本茶村宅に来訪したことがある。

   

 
   

藤田東湖(ふじた とうこ)
文化3年(1809)~安政2年(1855)
幕末に活躍した水戸藩の政治家、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。
水戸学者で彰考館総裁である父、藤田 幽谷のもとで学ぶ。水戸藩主継嗣問題に当たっては徳川斉昭派に加わりる。
斉昭襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進し、天保11年(1840)には側用人として藩政改革に当たる。水戸藩第九代藩主斉昭の絶大な信用を得て藩政に活躍した。中でも「弘道館」の創立に貢献し、天保の改革推進に尽力した。弘化元年(1844)5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると失脚、同年9月には禄を剥奪される。弘化3年(1846)斉昭が謹慎解除されると、江戸屋敷に幽閉、翌年謹慎処分となる。嘉永3年(1850)にようやく水戸に戻ることを許され、嘉永5年(1852)処分を解かれる。
藩政復帰:
翌年嘉永6年ペリーが浦賀に来航し、徳川斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐する。安政元年(1854)には側用人に復帰。安政2年10月2日(1855年11月11日)に発生した
安政の大地震の際、圧死する。享年50歳。全国の尊皇志士に大きな影響を与えた人物。
   
  水戸市:偕楽園となり常磐神社境内にある、摂社 東湖神社 
   
 



宮本茶村(みやもと ちゃそん)

文政5年(1793)~文久2年(1862)漢学者、漢詩人、考証学者
潮来村庄屋。のちに郷士にあげられる。名は元球・玄球。字は仲●(艸+勿)。通称は尚一郎。号は茶村・水雲(晩年)・双硯堂・三香社・鞏黄斎。幼少より聡明にして学問を好み、十余歳にして兄と江戸に出て碵儒山本北山の門に学ぶ。研鑽数年。北山の死後、故郷に帰り家業を継ぐ。遊学中の兄篁村(こうそん)に代わって11代当主となる。刻苦精励家産を再興するも富を蓄えるより名教を遺べしと学問教育に専念居所を双硯堂(そうけんどう)と称する。学徳を慕って来り学ぶ者多く、櫻任蔵、竹内百太郎、伊能節軒、吉川天浦、君浦、松浦の三兄弟、鹿島則文、松岡友鹿等はその門人である。水戸藩延方(のぶかた)校に招聘され下総の学者久保木竹窓と共に郷党子弟の教育に尽力する。庄屋となっては常に村民を慈しみ凶年に備えて義倉を設け天保の飢饉には私財を投じて窮民を救う。水戸藩徳川斉昭の藩政改革に当たって数度にわたって海防教学の意見を上書。天保14年篤学と藩政、村治功により郷士に抜擢される。弘化甲辰の国難が起るや江戸に上がり斉昭雪免の運動に参加。ために捕われ水戸藩赤沼の獄舎に繋がれる。幽囚3年この間も自若として詩を賦し志を述べる。
後に世俗を避け著述に没頭・・多くの名著を残す。多くの門弟や梁川星巌、大窪詩仏、菊地五山、水戸藩小宮山楓軒、会沢正志斎、藤田東湖・杉山復堂、立原杏所、色川三中、久保木竹窓、清宮秀堅(ひでかた)等と親しい。三河の渡辺崋山、羽前の清川八郎、長州の吉田松陰の来訪も受ける。
文久3年6月25日70歳の生涯を閉じる。明治40年正五位追贈される.著作は『常陸誌料』・『茶村詩集』など多数。
宮本家 
・・・潮来の民の長として、江戸時代は八人頭を世襲、歴代年寄役又は庄屋を勤め、通称平右衛門又は平太夫と称す。
潮来が河川交通の要所として繁栄した元禄時代は宮本家の全盛期で水戸藩主徳川光圀もしばしば訪れ、藩主を迎えた宮本家の書院は御成御殿の名あり・・・多額の御用金に応じたばかりでなく大名貸しも行った。享保以降、交通路の変遷で潮来も次第に衰退し、宮本家の経営も後退を余儀なくされた。水戸藩が同家に経営費用の貸与合力、藩有林の材木を与えて援助したのは多年の功労に報いたもの・・潮来市  宮本茶村顕彰碑より抜粋
宮本尚一郎(茶村・水雲)の父十代宮本平右衛門高重は旧高田村宮内清右衛門第十世正壽の第四子高重で潮来宮本家に婿入りし当主となった。(高重の姉ウタが九代宮本平太夫了義に嫁すが、子がなく了義の妹阿連以(レイ)を了義の養女として、これにウタの弟高重が婿入りし10代を継ぐ。茶村はその次男)

宮本茶村のPageへ


吉川三兄弟
吉川天浦(よしかわ てんぽ )(長男)
吉川君浦(よしかわ くんぽ )(次男)
吉川松浦(よしかわ しょうぽ)(三男)
吉川三兄弟は潮来宮本茶村に学ぶ・
漢学者

吉川天浦・・鹿島則文の師、
鹿島則文:67代鹿島神宮宮司、46代伊勢神宮大宮司、神宮皇学館を開学する

吉川(宮内)君浦(次男)銚子の新生村神職に婿入りした。
「銚子港史料」「銚子港沿革調」 宮本茶村の
「雙研堂詩集」を編纂した。
『大日本国語辞典 』 を編纂した
松井簡治の実父
 銚子川口神社に碑あり
吉川松浦(漢学者)   早世の兄の後を継ぐ。

 


 

岩亀楼
安政6年(1859)6月2日、日米通商条約によって横浜が開港され、それまで漁村だった「横浜村」が変貌することになった。
外国人居留地が設けられ多くの外国人が住むことになると、外国人のための
遊郭が作られた。 それが港崎(みよざき)町である。(現在の横浜公園のあたり)。幕府が遊廓の設置を認めたのは、駐留外国人と日本人の間にトラブル発生を防ぐ意味合いがあったと考えられている。この遊里は吉原を真似て作られたといわれ、遊郭の中で特に目立ったのが、岩亀楼五十鈴楼であったようです。
(岩亀楼は品川宿「岩槻楼」の主人、岩槻屋佐吉の経営する遊郭)
岩亀楼の建物はとりわけ豪華で 「美那登能波奈(みなとのはな)横浜奇談」では、岩亀楼のことについて「岩亀楼の家造りは、蜃気楼のごとくにして、あたかも龍界にひとしく、文月の燈籠、葉月の俄踊、もん日もん日の賑わひ、目をおどろかし、素見ぞめきは和人、異人打ちまじりて、昼夜を分かず」 と表現している。昼間には、建物の見学を希望する人からお金を取って建物の内部を案内したりもしたという。
大変に繁栄していたことが窺える。贅を尽くした様子は2代目歌川広重の錦絵として残っている。

遊郭焼失:この岩亀楼を含め港崎遊郭は、慶応2年(1866)の火災により焼失し、現在、港崎の名前も遊廓もない。
横浜公園の一角には、岩亀楼の石燈籠がおかれているのみ。
 


滝 和亭(たき かてい)
天保3年1月3日(1832年2月4日) - 明治34年(1901年)9月28日)
南画家。江戸生まれ。本姓田中。幼名長吉、邦之助。名は謙。字は子直、別号は水山、翠山、蘭田。
大岡雲峰に師事したのち、長崎に遊学する。鉄翁祖門に学び、陳逸舟などの清国人とも交友。安政元年(1854年)江戸に帰る。幕府に仕え、その後諸国を歴遊。ウィーン万国博覧会、シカゴ万国博覧会に出品し、内国勧業博覧会では毎回受賞。
明治26年(1893年)帝室技芸員となる。美学者の滝精一は息子。過程美術史家で美術雑誌『国華』の主幹瀧精一(1873~1945)の父。法隆寺金堂壁画模写に当った荒井寛方の師でもある。

 



寺門静軒(てらかど せいけん)
寛政8年(1796年)~ 慶応4年(1888年):
幕末の儒学者。諱は良。字は子温。通称は弥五左衛門。克己・蓮湖という号もある。水戸藩御家人の子として、江戸小石川水戸藩邸内に生まれる。折衷学派山本緑陰の門人となる。駒込で塾を開く。
天保2年(1831年)より、江戸の風俗を記した『
江戸繁昌記』を執筆。ベストセラーとなるが風俗を乱すものとして江戸追放となる。林述斎の讒言によって江戸幕府によって出版差し止めになったにも関わらず、天保13年(1843年)に第5篇まで書いたことが咎められて、「武士奉公御構」(奉公禁止)となる。以後、自らを「無用之人」と称して各地を流転する。やがて武蔵国妻沼(現在の埼玉県熊谷市)に私塾を開いて晩年を過ごした。他の著作として「静軒一家言」「静軒慢筆」「新潟繁盛記」など。

 


谷 文晁(たに ぶんちょう)

宝暦13年9月9日(1763年10月15日)~天保11年12月14日(1841年1月6日)
江戸時代後期の
日本の南画家、文晁派の祖
名は正安。字は文晁のほか文朝、子方。通称は文五郎。号は写山楼、画学斎、無二、一恕、文阿弥。
田安家の家臣で漢詩人の谷麓谷(ろこく)の子として江戸下谷根岸に生まれた。10歳の頃狩野派の加藤文麗に学び、19歳の頃中山高陽の弟子 渡辺玄対に師事した。鈴木芙蓉にも影響を受ける。北山寒巌からは北画(浙派・院体画)を修めた。
大坂の木村兼葭堂のところでは、釧雲泉より南画の指南を受け、長崎でも張秋谷より南画の技法を習得した。
古画の模写と写生を基礎に南画・北画・洋風画などを加えた独自の画風を生み出し、関東文人画を確立したとされる。
田安家に仕えたが、田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、近習となり、定信が亡くなるまでこの関係は続いた。
寛政5年(1798年)には定信の江戸湾巡航に随行し、『公余探勝図』を制作する。また定信の命を受けた図録集「集古十種」の編纂に従事し、古書画や古宝物の蒐集とその模写を描いた。文晁は白河藩小峰城三の丸にアトリエ「小峰山房」を構えていた。白河だるま市のだるまは文晁が描いた図案をモデルにしたとされている。画塾写山楼を構え、渡辺崋山・立原杏所など多くの門人を擁した。すぐれた画家を輩出し画壇の大御所的存在であった。



川田甕江(剛)(かわた おうこう)
(天保元年(1830)~明治29年(1896 ) 
幕末の松山(板倉)藩士。、幕末・明治初期を代表する
漢学者。漢文学の泰斗として名を成し有終館会頭。
維新後宮内省諸陵頭、博物館理事、貴族院議員、のちに文学博士、学士院会員。
備中高梁出身で、名は剛(山田方谷から剛毅の剛の字を名前として与えられた)字は毅卿、号を甕江と称す。
初め山田方谷に学び、その後江戸で佐藤一斎門下で学問を修めた後、藩校有終館で教壇に立った。
藩の危難に際して山田方谷とともに苦心して対処した。
江戸藩邸で働いていた川田もまた藩主板倉勝静と供に大坂城にいたが、敗戦を受けて熊田らと供に行動し玉島にいた。 
慶応4年(1868)、事実上幕府首相の地位にあった藩主板倉勝静は徳川慶喜とともに大阪城にあったが、藩老熊田恰率いる松山藩軍も藩主護衛の任に就いていた。
鳥羽伏見の戦いに敗戦し、慶喜に従って板倉勝静が江戸に下ると、熊田恰と松山藩兵百五十名は海路備中に戻り玉島港より上陸しようとするが、備前藩兵により包囲されてしまう。
松山藩では山田方谷が藩を救うために必死に恭順を演出していた。
国許からの示唆を受けた熊田恰は、部下の助命と藩の安泰、戦火の回避を嘆願して西爽亭次の間にて自刃した。
これにより備中松山藩は藩主勝静が箱館まで転戦して新政府に対し徹底抗戦していたにも関わらず、藩も保全され、玉島も高梁も戦火から免れた。
西爽亭には熊田恰の残した嘆願書(川田甕江の下書き)の写しも残されている。歌人川田順は川田甕江の子である。川田甕江生家は綿廻船問屋で、江戸中期に建設された店舗大國屋が今もその姿を留めている。川田甕江はこの家に生まれた。

 



新岡旭宇(にいおか きょくう) 
天保5年(1834)~ 明治37年(1904 71才。書家。名を久頼、幼名を虎八郎、字 公徴、通称 衛。号は旭宇・大海・静斉・玉翁。法名 天爵居士 墓は上野寛永寺勧善院。代々陸奥弘前藩士で書家新岡九郎兵衛の男。藩校稽古館で蘭学を修め、上田流書家工藤彦四郎に書法を学ぶ。弘化四年(1847)江戸に出て、寛永寺春性院に寄食し、衆僧に書を教授。
維新後は中国を漫遊し、晋の王羲之の書風を学び草書と仮名で名声を得た。明治17年に帰国後は、下谷根岸に住んだ。著作に「筆法初伝」「仮字帖(ちょう)」など。

 



西田春耕(にしだ しゅんこう)

弘化2年~明治43年9月10日(1845-1910)66歳。日本画家。名、峻。字、子徳。通称、俊蔵。東京入船出身。号、西圃のち春耕・腐翁。父は久須美佐渡守祐雋の家臣西田良右衛門高厚。魚住荊石・高久隆古・山本琴谷に師事。福田半香(ふくだはんこう:1804-1864)の塾幹部となる。半香没後、北越(柏崎)に赴き藍沢南城(あいざわなんじょう:1792-1860)に漢学を学ぶ。2年後江戸に帰り独立。南宋画を得意とし、また俳句を好んだ。
作品:「五百大阿羅漢図」、「人生快楽十二図」、「耶蘇昇天図」、「電気神女図」。
俳句集「句集『空尊集」。66歳。口嗜小史:西田春耕 著
 


田中玄蕃(10代)(たなか げんば)

弘化2年~昭和11年(1845~1936)92歳
海上郡銚子の豪商。幼名は亀次郎、1859年元服して謙蔵、諱 貞穆(さだあつ)。号は 春耕。
幼くして母をなくす。兄直衛と鹿島の吉川天浦(宮本茶村の門人で吉川3兄弟(天浦、君浦、松浦)の門に入る。後に天浦が無くなると吉川君浦(銚子新生村婿入りして宮内君浦)を師とした。
1862年文久2年、長男直衛は20歳の若さで、はしかで亡くなる。
1864年天狗党争乱の鎮圧に兵糧運送方を務める。
1864年元治元年高田村「さだ」と結婚。(仲人は宮内君浦)(注)
1868年家督を継ぎ御用達取締。直衛と改名。
1874年千葉県海上郡学区取締、明治10年(1877)千葉県会代議人。明治20年海防費献納により黄綬褒章。
1900年ヒゲタ醤油宮内庁御用達。総武鉄道、銚子遊覧鉄道、電話交換事業など開業に尽力。
1914年大正3年、ヒゲタ醤油とジガミサ醤油とカギダイ醤油を合同して銚子醤油合資会社を設立。取締役社長。
(注)田中謙蔵の妻は海上郡高田村宮内清右衛門の長女「さだ」だが潮来の考証学者宮本茶村の孫である。
仲人の宮内君浦は謙蔵の生涯の師でありるが、宮本茶村の門下生である。茶村がご縁の縁組と云えないだろうか。
なお「大日本国語辞典」の著者「松井簡治」は君浦の実子である。

 


波止場遠景
データなし