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潮 来 |
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水戸藩初代藩主徳川頼房は潮来村で宮本、窪谷、関戸、石田の4姓の家系の者8人に年寄りを命じている。村を8つに分け、各人が各区の戸籍行政をみた。全村共通の問題は8人の合議制をとった。
彼らは「八人頭」とよばれ内一人が、庄屋になった。そのほか役場に組頭5人、各区ごとに総代2人が日常業務をこなした。この体制は明治維新まで続いた。 |
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「新編常陸国誌」より |
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「この村に代々年寄りと称し来る家筋の者に、宮本、窪谷、関戸、石田の4姓があり、元禄の頃宮本平太夫80万両の分限にて、ある時筑前米18艘を買い取りて、大阪より江戸に下せしことあり。
窪谷庄兵衛は宮本平太夫に肩を並ぶほどの身代にて、ある年大都に知られんとて、江戸中の緋毛氈を買いきりしたことありぞ」とある。 |
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物流拠点・潮来の繁栄 |
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古利根川は東京湾に流れ込んでいたが、徳川幕府の河川改修工事により太平洋側に流れ込んでいた常陸川の上流に付け替えられ現在の利根川となった。それにより、江戸の治水と流通経済網を作るという目的が同時に達成された。
潮来は霞ヶ浦、北浦、利根川の中間点で水運物流の拠点として発展することになった。
潮来は東北地方→那珂湊→涸沼→(陸送)→北浦→利根川→関宿→江戸コースにおいても中継点であり、元禄時代は潮来の全盛期で、津軽や仙台藩の蔵屋敷等が立ち並んだ。
後に東北方面の物資は海船のまま、銚子経由で利根川を登り潮来に到着するようになり、ここで川船に移し、利根川を登り、関宿を経て江戸川を下るコースが盛んになった。
(文化年間以降、浅間山の噴火などあり、川筋に浅瀬ができ大型船の航行が困難となり、次第に衰退していくことになる。元禄時代は潮来の絶頂期で年寄り連中は羽振りがよかったのである。 |
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関戸家
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その中で、関戸家だけは良くなっかた。関戸家には「関戸家名相続物語」という家訓あり、その家訓に「とかく世を渡るについては金銀ほど大切なものはなし、たとえ親子兄弟の中に何ほど沢山物もちたる人ありとも、人の持ちたる金銭を一銭たりとも頼みかけるは大のあやまりなり」と。 |
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水戸藩の事情・桜田門外の変
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文政7年ごろより時々外国船が姿を見せる。
水戸藩は海岸線が長く、海防問題では神経をぴりぴりしていた。
弘化元年(1844)11月 関戸覚蔵が生まれる。
嘉永6年はペリーが黒船を率いて浦賀に来航(覚蔵10歳)、開港を求める圧力厳しさを増してきた時代であった。
万延元年(1860)水戸藩脱藩浪士を中心とする。大老井伊直弼暗殺の桜田門外の変が起こる。 |
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天狗党の乱 |
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元治元年(1864)尊王攘夷を唱えて筑波山に挙兵した「天狗党の乱」で、潮来地方からも天狗党への参加者が大勢でた。
関戸家は上関戸と浜関戸の両家に分かれていて、上関戸は天狗党に、覚蔵の浜関戸は諸生派にかかわった。 |
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浜関戸家の受難 |
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窪谷太右衛門の手記によると
「願入寺にて村役人協議中、乱入せる天狗党と称せし米川米蔵を首謀とせる一派にして、8月30日の夕刻、抜身の刀を携えて、名主関戸喜衛門方に押し込み、同人を召し捕らえんとするも、逃げ去り後なるを以って能わざりしも、それより家内を捜索し、頗る狼藉を極め、現金、白米等を強奪し去る」。(喜衛門とは関戸覚蔵の父主礼のこと) |
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維新後の関戸覚蔵
一家離散後、家族が顔を揃えることになる。 明治七年東京師範学校官費生を文部省から命ぜられ上京。翌年病気により潮来に戻る |
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自由民権運動に想い
明治7年は板垣退助、後藤象二郎達により「民撰議院設立建白書」が政府に提出された年、この全文が「日新真事誌」という新聞に発表された。覚蔵も建白書を手にしたに違いない。新たな時代の到来を思い、心に動揺するものがあったと思われる。
戸長・郡書記・自由民権運動の闘士
郷里に戻った覚蔵は戸長(村長)を命じられる。また行方郡書記の仕事、地租改正の仕事に尽力するかたわら、自由民権運動の闘士として鹿島郡・行方郡を拠点とし、民権思想の啓蒙にかけずりまわった。
建白書がきっかけとなり以後14年に及ぶ自由民権運動が始まった。
自由民権運動の要求項目は:
国会開設せよ、憲法の制定、地租の軽減、不平等条約の撤廃などであった。 |
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民権結社「公益民会」
明治12年に関戸覚蔵、磯山清兵衛、石田潤之助、藤岡彦之丞、篠塚亀二郎らが発起人となり、民権結社「公益民会」を興し筑波山の会(茨城の民権結社の代表が明治13年筑波山で会合)に参加した。
茨城連合会が発足し、国会開設が緊急課題となり、受け持ち区域を決め各地を遊説、再び筑波山に会合することを決めた。覚蔵はそこで起草委員に推された。
筑波山を下りた彼らは「腰弁当草鞋ばきで、戸長は勿論、普通の人民にいたるまで漏らさず訪問し日本内外の現状を説明し国会開設に急要、参政の権利の所以を説明し同意を求めている。
こうして2ヶ月半で1万2千名近い請願署名を集めている。
覚蔵らは請願署名を持って上京、ただ一人、覚蔵だけが許され、内閣応接室に入るが、結局大臣には会えず門外に出される。 |
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国会開設
関戸覚蔵や多くの有名無名の自由民権活動家などの運動の輪は燃え広がり、過酷な弾圧を繰り返した政府もその声を無視できなくなりやがて国会が開設されるようになる。 |
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第一回衆議院選挙に惜敗
明治28年7月第1回衆議院議員選挙がおこなわれ、関戸覚蔵は県の産業課長の職を辞して立候補した。しかし、士族新聞といわれた「茨城日報」からひどい中傷記事で妨害され落選する。以前から言論活動の重要性を痛感していた覚蔵は明治24年7月「いばらき」新聞を創刊。
ひらがなの「いばらき」にした理由につて、当時は文字を読めない人も多かったので、少しでも親しんでもらいたいとの意からと言われてる。 |
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第二回衆議院選挙に当選、以後3回当選
明治25年衆議院議員に当選して30年に至る。当選三回。中立系又は無所属とし革新の立場を貫く |
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著述に専念
多年の政治活動で家産蕩尽。晩年は政界を退いて著述に専念。
明治35年名著 「東陲民権史」編纂しその名を不朽に留める。
維新資料編纂会嘱託として維新資料の編纂に従事
大正5年5月9日水戸市で73年の生涯を終わる。
同市神應寺と浄国寺(潮来)に葬る |
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