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伊能家家紋 |
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西暦 |
元号 |
忠敬
年齢 |
忠敬及び・関連する事項、国外関連事項(イタリック) |
1639 |
寛永16年 |
: |
鎖国完成。 |
1716 |
享保1年 |
: |
吉宗 享保の改革。 |
1728 |
享保13年 |
: |
平賀源内 讃岐に生まれる。 |
1734 |
享保19年 |
: |
麻田剛立 現大分県杵築に生まれる。 |
1738 |
元文3年 |
: |
林子平 生まれる。 |
1742 |
寛保2年 |
: |
忠敬の妻(達(みち)の父長由(ながよし)が亡くなる。 |
1743 |
寛保3年 |
: |
伊能昌雄(長由の兄)亡くなる。 |
1745 |
延享2年 |
1 |
正月11日上総国山辺郡小関村に生まれる。幼名小関三治郎。 |
1751 |
宝暦元年 |
7 |
12月、母と死別、父貞恒は兄貞詮、姉フサを伴い実家上総国武射郡小堤村神保氏へ戻る。 |
1754 |
宝暦4年 |
10 |
アメリカで英仏植民地戦争。 |
1755 |
宝暦5年 |
11 |
母の家を去って父の実家に帰る。
佐原伊能家:長由の一人娘達(14歳)に一族(伊能七左衛門家)伊能景茂を迎えて配となす。
最上徳内 現山形県村山市に生まれる。 |
1756 |
宝暦6年 |
12 |
奥州の大飢饉により佐原村に浮浪者が流入する。
間 重富、大阪の質屋の子として生まれる。
ヨーロッパで七年戦争。 |
1757 |
宝暦7年 |
13 |
忠敬:この頃常陸某寺の僧につきて数学を習得す。
6月伊能氏の女婿、景茂没す。年21。冬、伊能氏の女景茂の長男忠孝を産む。
平賀源内 我が国初めての物産会開く。 |
1758 |
宝暦8年 |
14 |
伊能家佐原村の貧民救済のため米58俵出す。 |
1760 |
宝暦10年 |
16 |
伊能氏の女を達(ミチ)と改める。 |
1761 |
宝暦11年 |
17 |
この頃常陸土浦の医者の許に寄食し経学を学ぶ。 |
1762 |
宝暦12年 |
18 |
2月伊能氏の女の後配となり家を継ぎ通称を三郎右衛門忠敬と改める。(伊能家へ婿入り)
村民より推されて名主後見となる。
麻田剛立、官暦の日食の予報の誤りを指摘する。
久保木清淵生まれる。 |
1763 |
宝暦13年 |
19 |
2月長女稲生まれる。 9月伊能氏先夫の子忠孝没す年7歳。 |
1764 |
明和元年 |
20 |
3月初めて出府する。
実父神保貞恒、宗家より分家一家を立つ。
高橋至時 下級武士の子として生まれる。 |
1765 |
明和2年 |
21 |
7月、大山石尊へ参詣する。病気のため暫く静養する。 |
1766 |
明和3年 |
22 |
長男景敬生まれる。凶作には米銭を発して窮民を救う。 |
1769 |
明和6年 |
25 |
2女篠生まれる。江戸に薪問屋を開く。佐原村の祭礼で紛争があり有力者である永沢治郎衛門とつきあいをやめる。
高田屋嘉兵衛 淡路島百姓の子に生まれる。 |
1770 |
明和7年 |
26 |
8月江戸薪問屋類焼する |
1772 |
安永元年 |
28 |
幕府が佐原村の河岸に課税、忠敬らが反対したが結局出すことになる。
麻田剛立:大阪にでて医業をしながら天文観測、研究に没頭する。
田沼意次:老中を兼任する。 |
1774 |
安永3年 |
30 |
佐原村河岸課税事件を「佐原邑河岸一件」という記録まとめる。
11月養母民(伊能長由の妻)没す。年52。
杉田玄白・前野良沢ら解体新書著す。 |
1775 |
安永4年 |
31 |
間宮林蔵生まれる。(安永9年説もある)
長久保赤水「日本輿地路程全図」を作る。
アメリカ独立戦争。 |
1776 |
安永5年 |
32 |
アメリカ合衆国独立。 |
1778 |
安永7年 |
34 |
5月より6月に亘り、妻達を伴い奥州松島方面を漫遊する。
佐原の地御料所より転じて津田日向守の采邑となる
ロベール作 日本図。クック ハワイ上陸。 |
1780 |
安永9年 |
36 |
現東かがわ市に久米栄左衛門生まれる。
第四次イギリス・オランダ戦争。 |
1781 |
天明元年 |
37 |
8月地頭より本宿組名主を命じられる。 |
1782 |
天明2年 |
38 |
幕府、浅草に天文台を移設する。正月実父神保貞恒没す。年73。 |
1783 |
天明3年 |
39 |
7月に浅間山大噴火、利根川洪水、凶作。堤防の改築に尽力する。
飢餓に付き私儲を発して窮民を救恤する。9月地頭より苗字及び旅次佩刀を許される。
12月、配伊能達没す。年43。
工藤平助「赤鰕夷風説考」、大槻玄沢「蘭学階梯」出る。
古川古松軒 修験者姿で山陽九州を歩く後に「西遊雑記」にまとめられる。
アメリカ、パリ講和条約により独立戦争終結。 |
1784 |
天明4年 |
40 |
8月本宿組名主を罷め、村役後見を命ぜられる。
最上徳内 蝦夷地検分隊に使命される。(第一回渡海) |
1785 |
天明5年 |
41 |
高橋景保生まれる。林子平が「三国通覧図説」刊行する。
実父神保貞恒の後配戸村氏没す。年64。
幕府、山口鉄五郎・最上徳内らに樺太探検させる。
ラ・ベルーズ太平洋探検航海~1788年。 |
1786 |
天明6年 |
42 |
関東大飢饉に付き私儲を発して窮民を救恤する。関西より米を買い付け窮民を救う。残米を江戸で売り利益を得る。
ニ男敬慎生まれる。(母・内妻妙諦)
最上徳内:3月10日国後着、4月18日択捉着、七月ウルップ着。
田沼意次 失脚する。 |
1787 |
天明7年 |
43 |
徳川家斉11代将軍となる。
松平定信 老中になる。 寛政の改革。 |
1788 |
天明8年 |
44 |
3男順治生まれる。(母・内妻妙諦)
12月、二女篠(加瀬修助妻)没す。年20。
この頃伊能家の年間酒造高1480石で佐原第二の酒造家。
古川古松軒 幕府巡見使に随行後「東遊雑記」にまとめられる。
アレキサンダー・マッケンジーカナダから北氷洋横断成功。 |
1789 |
寛政元年 |
45 |
三女琴生まれる。(母・妙諦)老中松平定信、寛政の改革始まる。
最上徳内 7月15日西蝦夷に赴く。 |
1790 |
寛政2年 |
46 |
内妻の妻妙諦が亡くなる。26歳。
仙台藩医桑原隆朝の女信(ノブ)を納れて継室となす。
隠居願いを出すが許されなかった。 |
1791 |
寛政3年 |
47 |
景敬に家訓を与える。林子平「海国兵談」を刊行する。
最上徳内 4月16日択捉島に上陸、東蝦夷道中記を著す。
イギリスに陸地測量局設立。 |
1792 |
寛政4年 |
48 |
2月地頭津田氏より3人扶持(1日1升5合)を給される。
幕府林子平を罰し「海国兵談」を絶版とする。
ロシアの使節ラックスマンが根室に来て通商を求める。
最上徳内 四月中旬 樺太シラヌシに上陸(樺太の原図を多く作成)。
マケンジー、カナダ横断探検。 |
1793 |
寛政5年 |
49 |
2月より6月に亘り京阪地方を漫遊する。
近隣の津宮村の名主・久保木清淵等と関西旅行し、「旅行記」を書く。
宮本尚一郎(茶村)生まれる。
フランス・ルイ十六世処刑。 |
1794 |
寛政6年 |
50 |
正月、三男順治 夭す。年7。
家を長男景敬に譲り、隠居し三人扶持を辞す。
隠居扶持として一人扶持を給される。通称 勘解由と改める。 |
1795 |
寛政7年 |
51 |
3月継室桑原信、江戸生家に没す。
5月出府深川黒江町に僑居をトす
高橋至時幕府天文方となる。至時の弟子間重富も暦局に入り暦の改定に当たる。
忠敬、高橋至時(31歳)の門に入る。
忠敬多年の勤功により地頭所より景敬に称姓及び旅次佩刀を許す。 |
1796 |
寛政8年 |
52 |
隠居扶持を辞す。
地頭所より景敬に村役後見命じ三人扶持を給す。
シーボルト、ドイツバイエルンに生まれる。
|
1797 |
寛政9年 |
53 |
白昼金星の南中を観測する。 |
1798 |
寛政10年 |
54 |
客分の名の下に大崎栄を納れて内妻とする。
近藤重蔵がエトロフ島を探検する。
間重富 大阪にて幕府天文方御用を務める。
久米栄左衛門 大阪間重富のもとに入門し測量、天文を学ぶ。
5月20日大河内正寿を隊長とする180名からなる調査隊江戸出発。
徳内6月16日松前着7月25日国後で近藤重蔵と合流する。
ナポレオンエジプト遠征。
マッシュ・フリンダースのオーストラリア探検。 |
1799 |
寛政11年 |
55 |
幕府北海道の一部を直轄地とする。
高橋至時(忠敬の先生)、間重冨の師麻田剛立が亡くなる。 |
1800 |
寛政12年 |
56 |
第一次測量、蝦夷地測量。
閏4月19日より10月21日に亘り蝦夷東南海岸及び奥州街道を略測する。
北海道で間宮林蔵に出会う。12月その地図を上呈。
徳内 「蝦夷草紙」後編三巻完成。 |
1801 |
享和元年 |
57 |
正月幕府より天明年間両度賑恤を行いたることを賞して銀錠を賜り
称姓及び旅次佩刀を許可せられる。
第二次本州東岸測量。
4月2日より12月7日に至り、伊豆より陸奥に至る本州東海岸及び
奥州街道を実測する。 |
1802 |
享和2年 |
58 |
3月昨年測量した地域の地図が完成する。
子午線1度法を28里2分と定める。
第三次羽越測量
6月11日より10月23日に亘り陸奥より越後に至る海岸出羽街道
越後街道を測量する。 |
1803 |
享和3年 |
59 |
正月、昨年測量した地域の地図を草稿のまま閲覧に供す。
第四次尾張及び越前以東残部測量
2月18日より10月7日に亘り、駿河より尾張まで及び越前より越後に至る海岸及び尾張より越前に至る街道、越後寺泊より高崎に至る街道並びに佐渡等を測量する。(第4次測量)糸魚川で現地藩役人と考え違いがあって勘定所に訴えられる。 高橋至時「ラランデ暦書管見」著す。 |
1804 |
文化元年 |
60 |
高橋至時40歳病死、8月尾張及び越前以東の沿海実測(日本東半部沿海地図)成り上呈す。
家斉の上覧を受け幕吏に登用される。
9月小普請組に補し、十人扶持を給い、高橋景保手附手伝いを命ぜられる。
十二月西国円海辺測量を命ぜられる。
ロシアの使節レザノフ長崎来て通商を求める。
アメリカ、ルイスとクラークによる西部探検。
ナポレオン皇帝即位。
|
1805 |
文化2年 |
61 |
第五次西国測量
2月25日、江戸出発東海道筋伊勢、紀伊を経て備前に至る海岸と
淀川筋、琵琶湖を測量、岡山で越年する。
徳内 3月15日目付遠山金四郎の随員として蝦夷地派遣される。
徳内 国防計画の急務を老中堀田摂津守正敦に訴える。 |
1806 |
文化3年 |
62 |
備中以西の山陽海岸及び諸島?山陰及び若狭海岸隠岐等を測量し11月15日江戸に帰る。第五次測量終了。
久米栄左衛門高松藩から藩内の測量を命ぜられる。
参考資料巻末に収録 「久米栄左衛門通賢について」
長孫忠誨(ただのり)生まれる。 |
1807 |
文化4年 |
63 |
12月 文化2年及び文化3年測量した地域の地図が成って上呈する。
久米栄左衛門、伊能忠敬讃岐測量案内役を務める。
参考資料巻末に収録 「久米栄左衛門通賢について」
徳内 5月ロシア船攻撃に対処すべく函館に赴任する。 |
1808 |
文化5年 |
64 |
第六次四国測量
正月25日江戸発して気賀街道四国及び淡路の海岸大和及び
伊勢街道などを測量し伊勢山田に越年する。
間宮林蔵と松田伝十郎がカラフト探検に赴く。
秋、間宮林蔵は単身再度樺太探検へ。 |
1809 |
文化6年 |
65 |
正月18日江戸に帰着。第六次測量終了。
7月昨年測量した地域の地図が成って上呈する。
又命によって日本輿地全図を仮製する。
第七次九州(一次)測量
8月27日江戸を発して、中山道(中仙道、幕府は中山道に統一表現)
及び山陽道及びの街道筋を測量し、豊前小倉に越年する。 |
1810 |
文化7年 |
66 |
豊前・豊後・日向・大隅・薩摩・肥後の海岸、天草諸島並びに熊本より
大分に至る街道等を実測して豊後大分に越年する。
次孫銕之助生まれる。
4月長女稲の夫盛右衛門没し、稲は薙髪して名を妙薫と改める。
仙台藩江戸詰医桑原隆朝(忠敬の後妻ノブの父)亡くなる |
1811 |
文化8年 |
67 |
中国諸街道、三河より信濃に至る街道、甲州街道等を測量して5月に
帰る。第七次測量終了する。
11月文化6年以降測量した地域の地図が完成し上呈する。
第八次九州(第二次)測量する。
11月25日江戸を出発し、相甲駿の小街道を実測し摂津郡山駅に越年する。
この頃二男敬慎出て桜井氏の女婿となる。
佐久間象山、信州松代藩に生まれる。
パラガイ・ベネゼラ独立宣言。 |
1812 |
文化9年 |
68 |
筑前筑後及び肥後の一部の種子島屋久島並びに九州諸街道を測量して肥前国賤津浦にて越年する。 |
1813 |
文化10年 |
69 |
九州残部の海岸及び街道、壱岐対馬五島並びに中国における諸街道を
実測して姫路に越年する。6月長男景敬没す。48歳。
副隊長の坂部貞兵衛(42歳)が亡くなる。 |
1814 |
文化11年 |
70 |
近畿に於ける主要街道の残部濃飛信の二三の街道等を測り5月22日江戸に帰る。第八次測量終了する。
6月居を八丁堀亀島町に移す。地図ご用所とする。
6月、景敬の喪を発し、嫡孫忠誨に其の後を継がせる。
この頃二男敬慎、養家より離縁せられ11月より忠敬の許に寄食する。 |
1815 |
文化12年 |
71 |
江戸府内第一次測量。
2月3日より17日にかけて江戸府内街道筋を繋測する。
その頃九州地方残部の地図成る。
第九次伊豆七島測量する。
4月、部下を派して伊豆地方を測らせた測量派出隊は下田街道、伊豆七島伊豆東海岸等を実測して熱海に越年する。
4月、二男敬慎を放逐(ほうちく)する。 |
1816 |
文化13年 |
72 |
忠敬は孫忠(ただ)誨(のり)を伴って時々測量に出る。
測量派出隊は箱根芦ノ湖、富士裾、相模武蔵の諸街道、荒川筋等を測り、
4月江戸帰す。第九次測量終了する。
江戸府内第二次測量する。
閏8月8日より10月23日に亘り江戸府内を細測する。
この頃、伊豆七島等の地図成る。
「大日本沿海輿地全図」の作成に取り掛かる。
この頃佛国暦象編斥妄を著す。
アルゼンチン独立宣言。 |
1817 |
文化14年 |
73 |
9月江戸府内地図が成り上呈す。
「大日本沿海輿地全図」の作成を続けるが体力衰える。 |
1818 |
文政元年 |
74 |
4月13日(太陽暦では5月17日)八丁堀亀島町の宅に忠敬没す
喪を秘して発せず。
浅草源空寺高橋至時の墓側に葬る。
6月景敬の妻、りて没す。年35。
11月次孫銕之助没す。年9。
フランスの地形図完成。 |
1821 |
文政4年 |
没後
3 |
忠敬の友人久保木清淵をはじめ天文方の下役、門弟達の協力により大日本沿海輿全図および輿地実測録完成し上呈す。
9月4日、伊能忠敬の喪を発す。
幕府忠敬の功を追賞して嫡孫忠誨に五人扶持及び町屋敷を給し且つ永代佩刀を許可する。 |
1822 |
文政5年 |
4 |
長女イネ(妙薫)が亡くなる。 |
1823 |
文政6年 |
5 |
浅草源空寺に忠敬の墓碑が建立される。 |
1824 |
文政7年 |
6 |
シーボルト鳴滝塾を開設 |
1825 |
文政8年 |
7 |
外国船打払令 |
1826 |
文政9年 |
8 |
最上徳内、シーボルトに会う。交流深まる。 |
1827 |
文政10年 |
9 |
孫忠誨が亡くなる。(21歳) |
1828 |
文政11年 |
10 |
シーボルト事件発覚:シーボルトが高橋景保から伊能特別図多数を持ち出す。
水野忠邦 西の丸老中になる。 |
1829 |
文政12年 |
11 |
高橋景保が獄中で亡くなる。シーボルト国外追放される。 |
1830 |
天保元年 |
12 |
吉田松陰生まれる |
1833 |
天保4年) |
15 |
天保の大飢饉。 |
1834 |
天保5年 |
16 |
シーボルトが伊能小図の写しをクルーゼンステルンに送って意見を求めたところ、日本の天文測量技術は非常に優れていると高く評価される。水野忠邦 本丸老中になる。 |
1836 |
天保7年 |
18 |
最上徳内 82歳で没す。 |
1837 |
天保8年 |
19 |
大塩平八郎の乱。 |
1841 |
天保12年 |
23 |
水野忠邦 天保の改革。 |
1844 |
天保15年 |
26 |
オランダ国王、幕府に開国勧告をする。幕府はこれを謝絶する。 |
1846 |
天保17年 |
28 |
ビッテル通商をもとめ浦賀へ入港。 |
1853 |
嘉永 6年 |
35 |
ペリー浦賀に来航。 |
1854 |
安政元年 |
36 |
日米和親通商条約調印、安政の大獄。 |
1859 |
安政6年 |
41 |
吉田松陰 処刑される。 |
1860 |
安政7年 |
42 |
井伊直弼暗殺される |
1861 |
文久元年 |
43 |
アクテオン号を主艦とするイギリス海軍の測量艦隊が来日し、沿海測量と側深を行った際、取締りのため乗り込んだ幕府役人が持ち込んだ伊能小図を艦長が見て調べたところ、正確な地図である.ことを知り、
改めて幕府と交渉して同図を譲り受け、沿岸測量はやめて、主要地点の経緯度の観測と側深だけを実施して帰った。 |
1863 |
文久三年 |
45 |
イギリス海軍水路部で「日本政府の地図から編集」と明記して「日本近海の海図No.2347」を大改訂した。これはイギリス海軍が入手した伊能小図にもとづいたもので、これ以降、諸外国製の日本地図が見違える程正確なものになった。この伊能小図は、現在英国海軍水路部に所有されており、一九九八年、江戸東京博物館で開催される「伊能忠敬展」に、はじめて里帰りし、展示される。 |
1867 |
慶応三年 |
49 |
幕府開成所が、伊能小図をもととした「官板実測日本地図」(木版刷り)を発行する。 大政奉還 |
1868 |
明治元年 |
50 |
明治維新始まる。戊辰戦争、五箇条のご正門 |
1870 |
明治3年 |
52 |
大学南校が、「官板実測日本地図」(改版) と 「大日本沿海実測緑」を発行する。
|
1871 |
明治4年 |
53 |
伊能特別小図の近代版「大日本地図」(川上寛編。ケバ式で表現し、国界山地、水系など伊能図の空白を補ったもの)が発行される。
|
1872 |
明治5年 |
54 |
伊能家より測量司に地図類を貸与する。(世田谷伊能家所蔵最新資料)
1873(明治6年)55年5月、皇居の炎上によって太政官内の地誌課に保管されていた伊能図全部が失われる。
|
1874 |
明治7年 |
56 |
伊能家(伊能源六)から伊能図の控図(副本)を献納される。
「実測図献納ニ付賞金下賜」参百円。明治7年8月23日新治(にいはり)県(世田谷伊能家所蔵最新資料)
|
1884 |
明治17年 |
66 |
陸軍参謀本部測量局は、民間用として伊能図などを資料とする「輯製二〇万分之一図」を作りはじめ、明治二十六年に完成する。この図は、三角測量による帝国図に逐次置き換えられたが、最後に姿を消したのは屋久島で一九二九(昭和四)年だった。伊能図は部分的ではあるが、上呈後一〇八年生きていたことになる。 |
1889 |
明治22年 |
71 |
東京市芝区芝公園内に贈正四位伊能忠敬測地遺功表が建設される。 |
1919 |
大正8年 |
101 |
佐原町諏訪公園内に伊能忠敬の銅像が佐原町により建設される。 |
1923 |
大正12年 |
105 |
関東大震災による東京帝国大学図書館の火災によって、政府から保管を委託されていた伊能図副本はすべて焼失したという。
|
1930 |
昭和5年 |
112 |
佐原の伊能忠敬旧宅が国の史跡に指定される |
1936 |
昭和11年 |
118 |
片貝町(現在の九十九里町)小関に伊能忠敬先生出生之碑が建設される。 |
1957 |
昭和32年 |
139 |
伊能忠敬の遺品等が国の重要文化財に指定される。 函館山に伊能忠敬測量記念「銅版レリーフ」が建てられた。 |
1961 |
昭和36年 |
143 |
国費と県費の補助を受け伊能忠敬記念館が落成。伊能康之助氏から遺書、遺品の寄贈を受け佐原市が旧宅を買収。一般公開されることになる。 |
1965 |
昭和40年 |
147 |
東京都芝区芝公園内に「伊能忠敬測地遺功表」が再建される。 |
1968 |
昭和43年 |
150 |
佐原市で伊能忠敬翁150年祭が行われる。
江東区教育委員会により「伊能忠敬住居跡」の石標が建てられる。 |
1995 |
平成7年 |
177 |
フランスで伊能中図が保存されていることが確認される。 |
1997 |
平成9年 |
179 |
気象庁で伊能大図写本43枚が発見される。 |
1998 |
平成10年 |
180 |
東京都立中央図書館で伊能小図本州東部が発見される。 |
2001 |
平成13年 |
183 |
アメリカ議会図書館で伊能大図写本207枚発見される。 |
2004 |
平成16年 |
186 |
海上保安庁で未発見大図四枚の模写が発見される。 |
2010 |
平成22年 |
192 |
伊能忠敬関連資料(2345点の資料郡)が国宝に指定される。6/29 |