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伊 能 忠 敬
 Ver-20190209
著書:文化の開拓者伊能忠敬翁(宮内秀雄、宮内 敏 共著)より抜粋構成
: 第三次羽越測量 第九次伊豆七島測量
三治郎出生、幼少期 第四次尾張/越前東部測量 江戸府内測量
その頃の佐原伊能家 糸魚川事件 偉人の死
伊能家へ婿入り 師(高橋至時)病没 翁(忠敬)亡き後
節約・再興・村役貢献 幕吏登用 / 間重富の挫折 :
50歳隠居(第2の人生) 第五次西国測量 関連年譜
師との出会 第六次四国測量  後書きから
考察1(偉業をなしえた理由)

考察2(周辺の人脈から)
学業大成/測量志願 第七次九州測量(九州1次)
第一次蝦夷地測量 第八次九州測量
第二次本州東海岸測量 府内街道の測量
スライド&音声12分
伊能忠敬と銚子測量
銚子測量の検証 スライド&音声12分
伊能忠敬と巡る銚子ジオパーク 




















 三治郎時代 出生~伊能家婿入りまで
   小関三治郎後の伊能忠敬出生(1745)
忠敬の父は小堤(現千葉県横芝光町)の名主神保宗重の3男貞恒で小関村(現千葉県九十九里町)の名主小関五郎左衛門の婿養子となった。忠敬はその小関家の3子として延享2年正月11日(1745/2/11)に生まれる。
幼名を三治郎と云った。

母と死別、父と生別(1751)
宝暦元年師走、三治郎6歳の時、母が亡くなった(母と死別)。母には弟がいたが姉が婿養子をとっていた(姉家督という)。そのため婿養子だった父は気まずくなり、兄と姉を連れて実家に戻り忠敬だけ小関家に残された(父と生別)
。おそらく小関家との話し合いの中で忠敬が残されたと思われる。
二人の働き手を失った小関家の家勢は衰えていった。三治郎(忠敬)苦難の始まりである。

忍苦修行の時代(1751~  )
三治郎10歳の時、父の元に引き取られるが、兄や姉より遅れて戻ったことや、父が再婚していたこともあり家に馴染めず親戚等を転々とした生活になった。この間、親戚
平山季忠の絶大な援助を受けた。

そのころ佐原の伊能家は(1742~)・・婿入り先となる伊能家の現状
伊能家は中世より醸造業を営み隆盛を誇っていたが、9代伊能三郎右衛門長由は2歳の
(みち)を残して病没した。
享保2年(1742)母は
(後の忠敬の配)を連れて平山家(母は平山季忠の妹)の実家に帰った。
その間、佐原の伊能家の家業は親戚頼みになる。
が15歳になり、母娘は佐原伊能家に戻った。
達は一族伊能七左衛門清茂の次男「景茂」を婿に迎え一男をもうけるが「景茂」は21歳の若さで夭死する。再び伊能家は失望のどん底におちた。
心配した同族の伊能七郎右衛門豊秋は婿養子選定を
平山季忠(達の伯父)依頼した。




九十九里町小関
伊能忠敬出生の碑




九十九里町HPへ

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 三郎右衛門時代伊能家婿入り~隠居するまで

 
  婿こ選びを託された平山季忠が目をつけたのが、自ら目をかけていた三治郎であった。季忠は三治郎の経歴を立派にするため、江戸に上り林鳳谷の門を訪ね弟子入りを乞い、三治郎を季忠の4子として林鳳谷の門人となり、鳳谷より「忠敬」の名をもらった。下図参照。  
           
   門人平山季忠四子忠敬と書かれている。本書には副本あり「忠敬 帰納訂」仮名がつけられている
祭酒、大学頭は官職名平山季忠の推薦で、伊能三郎右衛門家へ婿入り(1762)する。
   林家
徳川家康の側近であった林羅山(はやしらざん)を始祖とし、朱子学の創帥として幕府に仕えた家柄である。先聖殿を造り、「書経」の蕘典を論じて、儒宗となる基が開かれた。
2代目春斎は将軍の侍読(君主に侍して学問を講義すること)を努め系図や史書の編纂に尽力。
3代目春常が元禄4年大学頭に任じられてから子孫は代々祭酒色と大学頭の官職を継ぎ、将軍の侍読を勤め、外交文書や法案の起草に携わり、聖廟(菅原道真を祭った北野天満宮)祭祀のほか編纂事業なども行なった。鳳谷は5代目である。
林家は昌平坂学問所の開設や日米和親条約ペリーと応接等、幕末まで要職を務める。
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林羅山:日本外史より
 現在の佐原(千葉県香取市佐原)


左側奥に伊能家旧宅がある

小野川(観光の町佐原のシンボル)
 
伊能忠敬記念館ロビー
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     勤倹治産。(節約と商才
婿入り後の忠敬は冗費を節約するなどの改革を実行し自ら率先実行し家業に精励した。商売には機微で米穀の販売や薪問屋をするなどして伊能家を再興した。

村治に貢献
婿入りの年18歳にして名主後見となり、40才にして名主を辞め村方後見となった。
その間、利根川普請工事、天明の出水で堤防の修築に尽力した。
備荒資金(災害時などに相互扶助の精神の積み立て金)の創設など公共のために貢献。


救済事業(1766、1783)
明和3年(1766)忠敬(22歳)は凶作で窮状忍びなく多額の米穀、銭をほどこし窮民を救う。この年長男景敬生まれる。
天明3年(1783)忠敬(39歳)浅間山の噴火、利根川の洪水による飢饉は「餓死者途に充」という有り様で、私儲を投じて救済する。堤防の改築にも尽力する。9月地頭より苗字及び旅次佩刀を許される。忠敬の配達が没す。天明6(1786)年夏忠敬(42歳)、北関東大暴風雨出水による大飢饉に私儲を投じ関西より米を買い付け救済する。残米を江戸で売り利益を得る。
    
奉行、柳生主膳正(やぎゅうしゅぜんのかみ)よりの申し渡し状
 
 三郎右衛門先祖、天正年中佐原村へ罷越(まかりこ)して住居以来、村方の為に相成ることを心掛け、引きつづき勘解由も右の申し送りあい守り、村内の困窮人を憐れみ、類焼に逢いし者に米銭食類等を合力し、凶年又は出水等の節、村内は勿論、近郷まで夫食(ふっしょく)貸渡、或いは合力し、貧窮にて年貢納め難き者へは辨(べん)納(のう)(分納)の儀取り計らい、米穀払底(ふってい)高直の節も、窮民を救い方の儀品々心を用い、すべて平日村内撫育(ぶいく)の志厚く且つ、三郎右衛門儀も幼年より孝心につき、父の申し教えに従い、代々申し送りあい守り、公儀を重んじ、地頭を大切に致し、平日人を労り、村内貧窮にて年貢納め難き者へは辨納致し遣(つか)わし、又は貧家の長病人、産婦等へ手当て致し、類焼の者を労わり且つ困窮にて潰(つい)えに及ぶべき者、または荒地起返し等の手当てとして積立金の心がけ等致し、右体、先祖より数代申し送りあい守り、惣(そう)じて村方のために相成り候共常々取り計らい候段、奇特の志につき、ご褒美(ほうび)のため、三郎右衛門へ御銀十枚下し置かれ、苗字子孫まで会い名乗り、帯刀はその身一代御免仰せ付けられる。勘解由儀は、御銀十枚下し置かれ、苗字帯刀とも、その身一代御免仰せ付けられ候。  以上。
    水魚の交わり久保木清淵(忠敬の学友、漢学の師、後に地図作成の協力)
   余力を持った忠敬は勉学を志す。当時の学友は久保木清淵であった
清淵は忠敬より17歳年少であったが忠敬は清淵の学徳を敬慕し、清淵は忠敬の人物を畏敬し、水魚の交わりを結ぶ。
    「関西遊記」・・・忠敬と清淵等との旅行日記について 久保木清淵と忠敬との交誼は年と共に厚く、寛政5年(1793年)には2月より6月に亘り相携えて京阪地方を巡遊した。その同行者には親戚数名もいて、かねがね皇太神宮参拝を目的とし、講社を作り一切の費用を積み立てて出かけた。勿論、世話役は忠敬であった。
江戸を出て今の横浜市神奈川区当時の金河まで来ると小雨が降り出し、今夜はこの地に宿泊しようと言い出す者が出た。すると忠敬は「旅を始めて間もないのに、これしきの雨で折角入念に立てた日程を変更するようでは余りに頼りがない」と訓告する。清淵は言下に「諸君大将の命に従い賜え」という。一同はそれぞれ元気づいて雨中の旅を続け、こうして百余日の旅行も無事に済ませたのである。
この旅行で忠敬は方位や緯度を測っている。清淵は忠敬の感化で大いに地理的趣味を持った。後年忠敬の為、下図を整理したり浄書したり地面に地名を記入するなど、また忠敬歿後には亀島町地図御用所と郷里との間を往来して地図作成という遺業の完成に尽力した。幕府に上呈した沿海実測録は清淵が浄書したもので、その序文もまた忠敬に代わって清淵が書き綴ったものである。これは素より忠敬に対する真心のこもった付き合いの然らしめるところであったが、彼にはそれが楽しく興味ある仕事であったに違いない。
忠敬の清淵等との旅行の日記は所謂「関西遊記」である(忠敬49歳の作)。これは高山彦九郎の日記(注①)、古川古松軒(注②)の日記と共に寛政三旅行日記として後世に併せ称せられるものである。それに文化8年の「間宮倫宗に贈るの序」、安永七年の松島旅行日記等は忠敬の名作と伝えられるものである。
   注① 高山彦九郎(たかやまひこくろう)  上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)で生まれた。江戸時代中頃の勤王思想家で、吉田松陰・高杉晋作・久坂玄瑞・中岡慎太郎・西郷隆盛等に大きな影響を与え明治維新を導いた人物。生涯を旅に過ごし、京都・江戸・郷里を拠点に全国各地(蝦夷地、四国以外の全国を遊歴。銚子も訪れている)、様々な階層の人々と交流、その様子を地域の歴史・地誌・習俗・民情などとともに克明に日記に記録。参考:大田市立高山彦九郎記念館資料

注② 
古川古松軒(ふるかわこしょうけん)   享保11年~文化4年(1726~1807年) 江戸後期の地理学者、名は正辰、通称 平次兵衛、字は子曜、別号を黄顕山人・竹亭。備中国下道郡新本村(現岡山県総社市)生まれる。家は代々薬種業を営み医術も施した。子どもの頃より地理学を好み、長崎に出て蘭学を学んだ。後に諸国を巡り、各地の地理・風俗・物産・史跡等を観察し記録に残した。天明3年(1783年)修験者になって、山陽・九州を歩いて回った旅行記が「西遊雑記」である。
天明8年(1788年)東北、北海道の政情を調べる幕府巡見使に随行して東北・蝦夷地を回った旅行記は
「東遊雑記」にまとめられた。記述の正確さから、間宮林蔵ら後に続く北方探検家のよきガイドブックになったといわれる。寛政5年松平定信に招かれて下問を受けた。翌年武蔵国の地理調査役を命ぜられ、府外五郡を調査し、地理図2枚(武蔵五郡之図)と「四神地名録」にまとめて幕府に提出した。寛政7年(1795年)、備中国岡田の(備中国下道郡)藩主より、苗字帯刀を許され、士分となり二人扶持を給された。 
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( 勘解由時代 )第二の人生スタート
50歳にして隠居(通称を勘解由に(1794~)
 
    家業に責任を果たした忠敬は長男景敬に
家督を譲り、幼少よりの願いであった学問
によって身を起こすことを決意し、師を求
めて江戸に出た。

←江戸深川:伊能忠敬旧宅跡

             浅草天文台跡⇒
 
 

良師
高橋至時たかはしよしときとの出会い・・・(1795)・・・ (高橋至時32歳、忠敬51歳)
改暦事業のため出仕していた幕府天文方・高橋至時の名声を聞き、忠敬は篤く贅を執り師弟の契りを結んだ。

学業の大成
忠敬は謙虚と尊敬をもって至時に師事した。至時も多大な便宜を図った。学費を惜しまず学理と実際を懸命に攻究したので、6年後には門下一番の暦学者と云われるまでになった。

測量志願(測量目的)
費用の自弁も省みず蝦夷地測量を志願するが許可がなかなか出なかったが、高橋至時の努力もあり寛政12年閏4月14日辞令書の交付に至った。

 志願の目的
 
  
午線1度の長さの実測これが分かれば地球の大きさを求めることが出来る。
当時、日本人として実測した者はおらず、25里、30里、32里等諸説紛々であった。注)1里=4㎞
忠敬は深川黒江町の住宅と浅草歴局とは1分半の差があることを確かめ、略1度の長さを推定したが、このような短距離では誤差が大きいことを師である高橋至時に指摘されていた。江戸より遠い奥州、蝦夷地に出かけ確かな数値を求めたかった。(注)1度=60分=3600秒
ロシアの東侵:ロシアの東侵(地図の必要性の認識)。当時より北方領土問題はあったのである。
当時、情報は限られていたが有識者の間ではロシアの東侵により国難がくると痛感していた。(忠敬34歳の頃にロシア人は国後島にまで及んでいた)。幕府は吏員を蝦夷地に派遣し巡視警戒させた。随行の最上徳内は単身国後・択捉・得撫に赴き、ロシア人を放逐した。
寛政4年(1792)忠敬48歳の時ロシアの第1次使節としてラックスマンが漂流民
大黒屋光太夫を護送して根室に通商を求めてやってきた。林子平海防を論じ人を惑わすとして罰せられた。「海国兵談」絶版
寛政5年幕府は北境の警備海防悟り老中松平定信が沿岸警備と砲台構築を命じた。
寛政7年ロシア人択捉・得撫に来て永住の準備を整えるに至る。
寛政10年、近藤重蔵が択捉に渡りロシア人の建てた木標を抜捨て我が国の国標を建てた。幕府は蝦夷地を幕府の直轄とした。
寛政11年、幕命により高田屋嘉兵衛択捉島への海路を開く。(忠敬測量の前年)
参考:文化元年、ロシアの使節レザノフが通商求めて長崎に来航する。この時幕府の対応悪く、帰途レザノフの部下は択捉島を侵し略奪などした。このことがきっかけで、後にゴロビニン事件に発展する。

趣味:名主時代、村の水帳の保管の任にあたり、村の実測地図を作成した経験があり測量は趣味の一つであった。注)水帳:検地帳のこと、検地の結果を村単にでまとめた土地台帳をいう。
功名心:長女妙薫あて書簡に「我等事幼年より高名出世を好み・・」とある。
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江戸深川黒江町の忠敬旧宅は今どこに
  
 伊能忠敬旧宅跡  
  現住所は 東京都江東区門前仲町1丁目18-3先。首都高速9号、永代通り、葛西橋通り、清澄通りを旧地図上に書いてみた。
水色は当時の運河である。首都高速9号は運河上を、また埋め立てられた運河もある。運河を利用しての都市計画がなされている。
 
 
   江戸深川は運河に囲まれた物流の拠点で物資の集積場所であった。仙台掘に象徴される東北方面からの米、木材木等は利根の水運により集まった。銚子沖の鰯から作られた干鰯も深川に集まり銚子場(白河町)と云われた。忠敬も干鰯を扱う店を構えていた。
 

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 第一次蝦夷地測量 寛政12年閏4月(1800)~10月測量日数180日、忠敬の私費負担80両

(富岡八幡宮境内に建つ伊能忠敬銅像)

(深川:富岡八幡宮) 
辞令交付後、忠敬は測量器械を携帯して内弟子門倉隼太・平山宗平・伊能秀蔵らの従者と共に、一行6名は黒江町の寓居を出発する。
富岡八幡宮に詣出て蝦夷地測量の緒に就いた。寛政12(1800年)4月19日(陽暦6月11日)の朝であった。
  

経路







江戸出立
都宮、白川、仙台、盛岡、野辺地、青森等を
て、5月10日、三厩に到着する。ここで順風を待って数日滞在。同月19日、函館港に向かって出帆したが風向き不良にて吉岡に上陸。それより、木古内を経て22日に函館到着する。ここに数日滞在、緯度観測及び遠山方位観測を行う。
函館山に登山し、北海道測量の第一歩を記している。(記念碑には胸像と碑文があります
)
 夷東南沿岸測量
5月29日函館を出発、毎日4里(16㎞)から8里(32㎞)の行程で、蝦夷地東南海岸に沿い測定した。オシャマンベ、白老、サルル、アッケシ着船、アンネベツ、8月7日西別に至る。根室・国後島の諸岬角の方位を遠測し位置を略定する。8月9日帰途に着き、9月11日函館に帰着。同月14日函館を発し、函館・松前間を測り、17日松前着、18日松前を出帆、三厩に寄航する。

帰路の奥州街道測量
奥州街道を毎日行程6里から9里を歩み略測量及び宿泊地での緯度測定を行う。9月20日三厩発し、24日野辺地、盛岡仙台、福島、宇都宮を経て10月21日(太陽暦 12月10日)江戸深川に帰還する。


 往路・復路共に同一路により、奥州街道を再測して精確を期した。 
 
函館山山頂展望台の側壁に設置されているレリーフ

伊能忠敬北海道最初の測量地
「土用朝五つ迄曇る。 夫より晴天、江戸出立後の上天気なり、
併し山々白雲おほし、箱館山に登て所々の方位を測、夜も晴
測量」  昭和32年4月 函館市
   

碑文は忠敬の測量日誌、寛政12年(1800年)5月28日(旧暦)の一節です。(伊能忠敬56歳)
大任を背負い、踏み入った当時の蝦夷地はいかなるものであったろう。
幾重にも重なる北海の山々に前途多難を思わせるものがあり、供の一人は病気にかこつけ暇を求めて帰っている。蝦夷地測量の厳しい現実を身にしみて感じた瞬間であったに違いない。(敏)
伊能忠敬は大野村(函館の北約10km)で後に弟子となる
間宮林蔵と出会っている。

忠敬が方位測定をした函館山の現在の夜景(2009年)
標高334メートルの頂上には展望台が建ち、ここまでロープウェイが運行している。100万ドルの夜景といわれる美しさである。


伊能忠敬の蝦夷地測量は東南沿岸沿いに西別(現別海町)までである。
蝦夷地全図は後に間宮林蔵の測量データを得て完成されたものである。
寛政12年(1800年)8月7日西別泊

←残雪の西別岳(月田芳男氏撮影)
  

 --帰府--

  門倉隼太・平山郡蔵・久保木清淵・及び忠敬内縁の妻栄(大崎栄)を助手として製図に従事し12月に竣功する。
12月21日、大小二種の地図を幕府勘定所に、別の一部は至時経て、若年寄堀田摂津守正敦に上呈する。
測量結果は幕府当事者が重視するところであったが、予期以上の成果を収めたので、その後の事業計画に一大福音をもたらした。
伊能忠敬は測地事業の第一歩が無事に完結したことの喜びを日記に残している。
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    第二次本州東海岸測量享和元年(1801)4月~12月、測量日数230日、私費負担60余両
    高橋至時の口ぞえで、同年3月3日若年寄立花出雲守より測量辞令が交付される。
享和元年4月2日門弟平山郡蔵、平山宗平の兄弟と尾形敬助及び次男の秀蔵の4名の助手並に嘉助1名を従えて
江戸を出発し大森より測量を開始。
  --経路--
 
江戸湾の西縁より三浦半島を囲測し、相模の海岸及び伊豆東海岸を経て5月13日下田港に達する。17日同地を発し西海岸の測量を行い同月晦日三浦半島に到着する。この地にて江戸より回送された量程車を用いて東海道を東に向って測量し、6月1日一旦江戸に帰る。 

 
6月19日再び江戸を発し、江戸湾の東縁に沿い行徳、木更津、州崎(館山市)、勝浦、尾形村(小堤村実家へ立ち寄る)、房総半島を一周し、享和元年(1801)7月18日銚子に着く。飯沼村(銚子)田中吉之丞(田中玄蕃の新宅)に泊まる。この日佐原より伊能三郎右衛門、伊能平右衛門、清宮亀太郎、久保木太郎衛門、伊能七左衛門が見舞いに来る。 
   銚子測量(冨士山の方位測量)の意義(9日滞在)
    19日犬若より黒生(くろはえ)を測量、20日忠敬病につき郡蔵、宗平、秀蔵、慶助を遣わし黒生より飯沼、和田、伊貝根を測量、21日大雨、22日雨、23日東町河岸より新生村、荒野村、今宮村河岸、利根川を渡り波崎を測量、24日朝より晴れるも靄で遠測できず、太陽を測る、25日晴れ、筑波山、日光の山々を測量、26日晴天、この朝、日の出に犬若岬で慶助冨士山を測る。
忠敬は到着の19日より冨士山の方位を測るべく手分けして準備していました。銚子半島を入念に測量しながら富士測量のチャンスを窺っていましたが恵まれず、川向こうの現茨城県波崎まで測量しながら待っていました。やっと26日になって叶ったのです。測量日誌に「・・・犬若岬に慶助冨士山を測る・・その悦知るへし」と記しています。いかに忠敬が富士山の方位測量に重きを置いていたかが分かります。事実、伊能図の富士山からは四方八方に40本ほどの方位線が描かれています。
富士測量後は直ちに小名濱まで先触れを出しています。翌日27日利根川を渡り矢田部安藤家に宿しています。
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その後、常陸の海岸を経て陸奥に入り8 月22日松島に至る。これより北、釜石宮古付近までは、岬湾出入り地勢険峻海辺につき、度々小船にて海中を引き縄し、沿海測量を続行し、9月25日釜石に到着する。更に陸上を北進し、10月17日尻谷に達する。下北半島を一周、10月27日野辺地至り、青森を通過して11月3日三厩に到着する。同月5日同地を出発し帰路につき、先年の奥州街道を再測しつつ12月7日江 戸に帰着する。

=====犬吠埼の朝日と屏風ケ浦の夕日===========
銚子市犬吠埼は本州の最東端に位置し最も早く日の出が見られます。
「初日の出」は大変な人で賑わいます。
銚子マリーナ・屏風ケ浦の夕日は絶景!運が良ければ冨士山も!

犬吠埼の朝日


犬岩(銚子市HPより)
富士山を測量した地点犬若岬
義経伝説の犬岩



銚子マリ-ナの夕日

伊能測量では当然のことながら富士山が各地から測量されています。
東端の地、銚子は重要な意味をもっています。忠敬は富士山の測量が叶うまで天気待ちし9日滞在しました。

滞在中、
佐原から船で親戚、知人が多く見舞いにきて同宿しています。
この間、銚子は忠敬の
「ふるさと」になりました。

(銚子は伊能測量において大いに意味のある地なのです)この地に伊能忠敬測量の碑を!(完成しました)

銚子マリーナの夕日
潮見マリーナ海水浴場より見る夕日
左手に:銚子マリーナ
右手に:東洋のドーバーと呼ばれる「屏風ケ浦」があります。
中央に:空気の澄んだ日には富士山が見えます。
絶景を一望できるポイントに千葉科学大学マリーナキャンパスがあります。

銚子市HPへ



高輪大木戸跡測量開始地点
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量程車
第2次測量で使われたが
思うよな成果は上げられなかった





  伊能忠敬二十余年ぶりの奇遇に因縁を感じる。  
陸前国分け浜(現宮城県雄勝町)この日の止宿は24年前、伊能忠敬が妻(達)をつれて松島漫遊した際、鉾田(茨城県)から仙台まで10日も同行した旧知の秋山惣兵衛宅であった
伊能忠敬と妻達は安永7年(1778年)忠敬34歳の時、5~6月にかけて松島へ旅行しました。行きは船中心で沿岸つたいに、帰りは内陸を通り帰宅しました。(奥州紀行・松島旅行日記) 
 

   銚子と東北地方の交易
銚子測量後、常陸、岩城と北上しながら測量し享和元年9月8日陸前国分け浜に到着する。この日の止宿が24年前、妻を伴い松島漫遊紀行をした際、10日間も同行した秋山宗兵衛家であった。
伊能忠敬測量日記によれば「余、先年奥刕松島遊覧しけるニ、頃ハ皐月末の八日佐原を出立、
鉾田と云所まで乗船す、風波ありて尺取らず。漸ニ串挽江着て船泊りしける、傍にも旅人乗りし舟ありける、笘鼓しに物語れハ松島より遠き分ケ濱と云所の秋山惣兵衛と云者にて、交易の事ニ銚子港へ来り復某国へ帰りけるなり、彼人云けるハ一人旅の物寂しけれハ願わくハ同伴賜へかしと乞し程ニ、此方(コナタ)も旅馴ぬ身の幸と同動しけるニ、日々駅次宿の事などいと懇ニ執斗ひける、十日程を経て仙台の城下ニ着けるニ、此所の名所など案内し且酒食迄も篤く餐応しける、別ニ望て宗兵衛云いけハ、貴邦ハ我郷を去る事百里余の山海を隔テぬれハ枉賀難かるへし、余ハ交易の為ニ銚子港又ハ東都江幾度も往来す、其行路なれハ必尋ね問んと約して別れぬ、夫より、年経ぬれと互ニ、此度  台命を蒙り国々の海辺を来往しける、此国の守よりも令ありて止宿事迄も沙汰せられけるニ、不思議ニ此分ケ濱なる秋山惣兵衛なる者の家ニ舎(トマ)り合ぬ、真ニ深き因縁ニてそありける、終夜往事を語り合ヒ、指を屈すれハ安永戌戌の歳にて二十四年ニそなりける、主じも別離を惜ミ此先の泊々二三日間送別しける」とある。
このことからも当時の
銚子が東北商人にとって重要な取引地であったことを示すもので意味深い。(東北-銚子-江戸の交易は忠敬以前1600年代からあった.)

☆ この地方の大震災に際し、お見舞い申し上げます


  --帰府後--

直ちに随従の門弟と共に計算及び製図に従事する。
子午線1度の数値として28里2分(110.85キロメートル)を得る
測図は翌享和2年3月19日縮尺3万6千分の1の一組32枚の大図と、縮尺43万2千分の1の小図一枚を幕府に、
縮尺21万6千分の1の組2枚の中図を若年寄堀田摂津守に
上呈する
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第三次羽越測量
享和2年(1802)6月~10月、測量日数132、(待遇大幅に改善される)  
  享和2年6月3日(1802年)、至時は堀田摂津守の命を受けて辞令を忠敬に伝達する。
陸奥三厩より西の方日本海方面は出羽越後、越中、能登、加賀、越前海岸及び尾張三河近江駿河の海辺測量を命ぜられる

この度は年額60両という略実費を償うのに足りる手当金を支給された上、「道中、人足五人、馬三疋(あし<、長持ち一棹、持人被下候事; 」という無賃の人馬徴発の特権を付与され、宿泊料も公用にて往来する幕吏と等しく木賃支払の制を許された。以降、測量業務は蝦夷掛の手を離れた。
-経路--



享和2年(1802)8月弘前城下☆ 享和2年(1802)10月善光寺町☆
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  享和2年6月11日、門弟、平山郡蔵・尾形敬助・伊能秀蔵・大平雄助の4人と、しもべ下男2人を随従江戸を出発する。
千住より奥州街道を鉄鎖、藤縄の類を以って精測しつつ北進、草加・宇都宮を経て21日白河に到着する。若松・米沢・山形新庄・湯沢・秋田・土崎を経由し、7月23日に能代港に到着する。8月1日には日食観測を行い、8月4日能代を出発して大舘・弘前を過ぎ青森に達する。
沿岸測量に移り、前年測量した三厩までを再測量し、竜飛崎付近は乗船略測を行う。20日三厩を出発し、算用師峠を越えて小泊に出る。
その後、日本海沿岸を南下、29日再び 能代に達し男鹿半島を囲測した後、土崎に至る。更に出羽海岸を南下し、本庄・酒田等を経て越後に入り・9月24日新潟に至る。寺泊、柏崎等の諸地を経て、10月4日直江津より海岸を離れ、同日、高田に到着する。更に越後街道を測量しつつ帰路に就く。
善光寺、上田等を過ぎ追分にて中山道に入り軽井沢・高崎・熊谷等の地を経て10月23日帰府する。
 
 
  測量の基本:  長さ、角度、時間・・・・天体観測

長さ・距離・・・ (間竿・間縄(けんなわ)・鉄鎖、歩測)
角度・・・・・・・  (象限儀)
時間・・・・・・  (垂揺球儀(すいようきゅう

忠敬はより正確な測量をするためにさまざまな道具を用意しました。
なわに一定の間隔くで印が付いている「間縄(けんなわ)」。  「鉄鎖」とよばれる鉄の鎖)。
 

   
 
鉄鎖:間縄に比して伸び縮みがすない。重く持ち運びも大変であった。使用した実物は残っていないので想像だが海上での使用は無理、地上でも、真直ぐに伸ばすに苦労したのではないか。

 

間縄(けんなわ)長さ60尺で1間ごとに印があり、麻・藤ずる・鯨のひげ等で作られた。

軽く使いやすいが、湿度等により伸縮誤差があるのが難点である。

   --帰府--  
  測図の提出忠敬は直ちに製図にとりかかる。この度は受命地一部の測量なので、測図草稿のままを、翌享和3年(1803年)正月官府に提出する。その後、残部測量のため出発準備を整え次の沙汰を待つ。
 
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第四次尾張及び越前東残部の測量享和3年(1803)2月~10月、測量日数219日
  享和3年(1803年)2月18日、至時は若年寄堀田摂津の命を受け、忠敬の前年測量の残部を継続実測させるため、路用旅費として「金82両2分被下候、道中人馬長持之持人等去年之通被下候旨云々」を忠敬に伝えた。
忠敬は同月25日、門弟平山郡蔵・尾形敬助・村津大兄・小野良助並びに伊能秀蔵の5人の随行としもべ人と
共に江戸を出発する。


--経路-



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総持寺(1967)
  東海道筋を西進する。さきに享和元年(1801年)伊豆よりの帰途に略測した道路を再測しながら3月4日沼津に達する。この地より尾勢の界に位する佐屋宿に至るまでの沿海線駿府御前崎、浜松、伊良子湖、熱田並に静岡より名古屋に到達する小街道を測る。ここより海岸を離れ5月15日大垣に到着し、関が原・木ノ本などの諸地を経て敦賀に至る街道を測量する。
更に西方若狭国境に至るまでの越前海岸を測った後、6月3日敦賀を出発する。東方に向かい、越前加賀海岸線及び福井・金沢などに至る街道を測量する。7月5日、能登国羽咋郡今浜村に到着する。この地にて手分けし、部下平山郡蔵に一部員を率いさせ、能登半島を右回測量させる。忠敬隊は他の部下と共に左旋測量し、7月27日、七尾にて両者合流する。
更に越中越後の海岸を測進し、8月12日直江津に達し、昨年の測点に連結し、本州東半分海岸線の測量が完結したのである。
これより忠敬は尼瀬町に至り、順風を待つこと数日、8月26日佐渡小木に渡る。二隊に分かれて実測を完了し、9月17日寺泊に寄航。長岡・六日町・清水越を経て高崎に至る街道を測りつつ、10月4日高崎に到達し、昨年の測点に連結する。熊谷を経て
10月7日江戸に帰着する 

-帰府--

尾張越前以東の測地図を製作するに止まらず寛政12年以来、五年に亘って測量した本邦半沿岸総合地図作成に昼夜専念従事する。

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糸魚川事件(1803)
   越後国、糸魚川において、村役人等が煩労を避けようと、度々虚偽弄し測量に障害をきたしたので忠敬は大いに詰責した。不安の念にかられた村役人らは、非を掩蔽しようと、忠敬を領主日向守に誣告した。これが勘定所に具申され、幕府は忠敬が公儀の権威をかたり尊大の所為があるものと思料し、急御用状以って忠敬を注意するに至った。高橋至時の努力があり忠敬の身上は事なきを得った。
(注)現在の見方
現地の藩役人との考え方の違いにより起きた事件である。双方に理由があり一方的ではない。姫川河口を船で調査したいと申し出たところ、役人は危険を理由に船の用意を断った。忠敬は労を惜しんだと思い役人を叱り付けたという。

   
高橋至時の病没(1804)
   文化元年正月5日恩師至時先生が病没する。忠敬は悲嘆の奈落に突墜される。高橋至時は伊能忠敬の師であるとともに事業の最大の後援者であり、無二の理解者であった



墓地は浅草 源空寺(台東区上野)にある。

この右手には伊能忠敬の墓石がある

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  登用の恩典
  __   文化元年9月10日翁を城中焼火間(たきびのま)召して若年寄堀田摂津守より登用辞令を伝達された。
以後は幕吏として暦局に出仕し天文方高橋景保(高橋至時の長男)の属官となった。
それにより、今までの官府後援下の測量から御用測量となった。
 
  登用辞令   
    伊能勘解由  其方儀是迄国々海辺測量御用並地図骨折相勤候 
 以後も右筋御用被仰付候に付  拾人扶持被下置小普請組被仰付

 
   間重富(はざましげとみ)本邦西半部測地企画挫折  
 
当初本邦東半部は忠敬隊、西半部は間重富隊が測量することになっていた。
間重富は享和三年の春、関西地方を実測しようとしたが出発に際し病に犯されたり、火災に遭うなどしたため出発を次年に延期していた。
そこに至時の死という不孝があり、重富は至時の嫡子景保の後見の任に当たりながら、高橋天文役所においてラランド暦書の訳述に従事することとなった。
そのため測地事業は全て忠敬に一任せざるを得ない事態となった。
忠敬の測地区域は全日本に拡大されたのである
 
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第五次西国測量の命(本邦西部測量受命)文化2年(1805)2月~文化3年(1806)11月測量日数640日
 
    (前例のない厚遇)
  文化元年(1804)12月25日堀田摂津守より景保を経て、西国一円の海辺測量の命を受る。
 
測量手当てその他の計画 
  この度は前例の無い優遇を受け、出張手当ては多大な増額をみた。忠敬の旅扶持日五升、雑用金1ヶ月3両2分、宿泊料1ヶ月銀43匁、別手当て1日銀14匁その他、下役・門弟等、それぞれ手当てを受け、筆・墨・紙・蝋燭代まで支給されることになった。

これを第1回の測量手当て1日銀7匁5分宛て、第2回の同じく銀10匁宛てに比較すれば格段の相違である。
発令と共に幕府は糸魚川事件に鑑み忠敬に訓令を伝え、請書を出させた。
忠敬は、随行の内弟子等に血の起請文(誓約書)を書かせた。
忠敬の計画は、従来のように年々測地先より帰府して越年せず、出張先で迎年して、33ヶ月をもって一挙に受命全沿海線の測量をやり遂げる意図であった。
幕府の要務を行う立場になったので、忠敬に万一の支障が生じた場合、この任務を代行する班員を加えることになり、高橋景保の実弟高橋善助(後に渋川助左衛門景祐と改名)並びに天文方下役市野金助・坂部貞兵衛の2名を加え門弟と共に随行させることになった。
 
 
--経路--
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     那智 ➞







← 宍道湖   


 
往路の街道測量

文化2年2月25日深川黒江町を出発。総勢14人、高輪大木戸より実測開始、先年既測の沼津までを再調査する。それより新たに東海道を測進し(清水、静岡、浜松、豊橋、名古屋)経て4月9日桑名城下に至る。

近畿中国測量
伊勢志摩紀伊和泉摂津の沿海より淀川流域を経て大津に至る街道
桑名にて大手分して伊勢海岸と沿海街道筋を測り、4月22日山田にて両班相合する。同夜は木星とその衛星との交食現象を観測し同地に数日滞在。宇治より
鳥羽に赴き、更に岬湾の出入り犬牙錯綜を極める伊勢志摩海岸を測進、6月14日紀伊の錦ヶ浦に到着
この地にて16日暁出現の月入帯食を観測する。それより行路、山が高く険しいく波荒い紀伊海岸(尾鷲、熊野、白浜有田)を回測し、8月9日和歌山に到着。
和泉摂津の海岸をて8月18日大阪にり、病気や怪我による離班者2名を帰府させた。ここで付近の測量をしし、また間重富留守宅にて天測を試み、10余日をやし、8月晦日に大阪を出発。淀川筋を測り、翌8月5日京都に入り滞在数日の後、大津より湖水を右に湖岸線を一周、9月21日大津に帰着。この地にて補欠班員として到着した天文方下役1名を加え、山陽道海辺測量の工程を起こす。

山陽道海辺測量

9月23日大津を出発し、
伏見に出て大阪以西攝津海辺を測り、10月7日兵庫に達す。更播磨沿岸を西下し、この間家島群島(兵庫県)をも回測する 。赤穂を過ぎ西備前に入り、本土の沿岸及び付属島嶼(島は大きい島、嶼は小さい島)道に児島半島(岡山県)を測量する。12月、岡山に到り滞在して実測材料の整理並びに下図調製に従事しながら併せて、併せて天体観測を行う。この地に越年して文化3年を迎えた
 
 
 
 
測量速進所見の開陳
: 
これより先、忠敬、京都より書を景保に寄せ、新たに4、5名の増員を得て、労逸(苦労と安逸)交代に勤務させ、以って事業の速進を期したいとの意見を開陳した。

景保よりは官許(政府の許可)を得て大増員を行い、大手分けして一気に測量を期すか、そうでないなら、中国測量後一旦江戸に帰り、改めて出張を計画すべきとの所見の回覧があった。これに対し、忠敬は体験上、大手分けに首班たる人物を得ることの難しさを説明し、自分の要望が入れられない限り一度帰府したいと返酬した。その後、忠敬は岡山より再度実情を訴え懇請に及んだので、尾形啓助・門倉隼太の内弟子が増派されることになった。

班員の不足を感じていた忠敬は、岡山にて入門の二弟子を加えて業務を補助させ沿海及島嶼を実測する。2月19日忠海(広島県竹原市忠海町)に達し、この所にて臨時の随員を帰国させ、3月12日蒲刈下島(広島県呉市)に到到る。江戸より未着の班員2名を合し、5月6日遂に赤間関に達した
 
 
 
赤間関より出雲まで並びに隠岐の沿岸測量

4月の末ごろ周防の海辺にて翁は瘧疾(おこり)をい、赤間関(下関)にて療養に努めたが其の効果みられず、測量はく配下にねることとし、班員等は赤間関より長門の西北海を測進し、を経て瀬戸崎にて翁に合し6月8日浜田に達し、6月18日松江に到着。23日翁は班員と共に三保関より舟をしたくし隠岐に向かったが、風悪しく進航することができず、伯耆の小港に寄泊。この為、翁の病、再び亢進して隠岐へは渡航できなくなった。当時、偶々病にった内弟子平山郡蔵及びしもべ1名と共に松江に残って加療することにした。班員などは7月3日三保関を出帆する。翌日隠岐知夫里島に到着。その後、隠岐諸島の回測と天体観測を完了し、21日三保関(島根県)に帰航。更に出雲の北海岸並びに宍道湖を周測し、8月4日松江に帰着し忠敬に合流した。
伯耆(ほうき-鳥取県)より若狭(福井県)に至る沿海

近江(滋賀県)その他の諸街道測量
8月7日、忠敬の病
ようやく軽快したので随員と共に山陰海岸を東進する。9月5日宮津に達し、これより若狭入り、二班を作り忠敬は小浜より街道を測り、他の一班は海岸線を若狭国境に至り、享和3年の測点に連結する。10月8日敦賀にて両班相合し、再び分かれて一班は柳ケ瀬浜を経て大津に至る湖東の街道を、他班は疋田海津大溝を経て大津に達する湖西街道を測量、10月19日両班大津にて合流する。大津にて随員の一人高橋善助が私用にて離班した。
以外の班員は10月21日発足する。帰途東海道を測進し四日市付付近にて昨年の測杭に連結する。
なお分班して、関より津に至る参宮街道を測り同月28日
桑名に着、更に佐屋・起・清州等を経て熱田に至る街道を測量して今回の測地を打ち切った
 
 

  多事多難なりし測量   
   山路が険しく断崖の紀南半島や島嶼(大小の島)群る瀬戸内海海域の測量は煩労を極めた。加えて班員ぞくぞく病魔に犯されるなどした。忠敬も、4箇月に亘って病み業務を観ることができなかった。そのため、計画に一大齟齬(計画が狂う)をきたしただけでなく、この間、随員の幕吏と内弟子との間に不和を醸し、かつ門弟の綱紀も弛み宣誓を無視する者も出る等、誠に多事多難であった。そこで当初企画した一気呵成の方針をやめて、11月15日江戸に帰った。
地図の提出
帰府後、忠敬は自宅を地図御用所にして製図に従事した。約一年の後の文化4年12月に至り、大、中、小の三種の地図が完成し、その18日淺草高橋役所に提出した。
 


銚子と紀州人

濱口梧洞銅像
ヤマサ醤油10代社長
(銚子公正市民館前)



  廣浦とは旧廣川村
現在の和歌山県有田郡広川町

関連資料あり 
  伊能忠敬測量日記(千葉県史料)によれば、文化2年(1805年)8月3日忠敬の記録に「朝晴天、六ツ後唐尾浦出立、・・中略・・山本村之内白木迄測、夫より乗船、廣浦へ行テ中食、下総銚子廣屋の手代小兵衛当所江上居ニ付対顔銚子知音江へ伝言す、此者來閏八月二日下総銚子へ下向と云」とある。 知音(ちいん)知人、親しい人

銚子は紀州特に廣村(以後、広と略記)とは深い関係にある。 広村では1500年代末頃より漁師出稼ぎが始まり、やがて東国に移り住むようになる。遠州・駿河・伊豆・安房・上総を経て17世紀頃には銚子にやって来た。およそ400年前に広屋(武井)藤兵衛らが、1656年には崎山次郎衛門(外川漁港拓いた)らが移り、17世紀末頃までには広屋重治郎、広屋庄衛門、広屋(濱口)儀兵衛、行方屋(大里)庄次郎等が移り住む。
荒野村(現銚子市の中心部西芝東芝)には十軒党という組織があり紀伊から移り住む者へ力を貸していた。広屋(濱口)儀兵衛は現ヤマサ醤油株式会社の創始者であり、元禄13年(1700年)に醤油店を始めている。忠敬の測量日記に出てくる手代が云う広屋は現ヤマサ醤油であった可能性もある。
(前述のように広屋を名乗るもの、他にもある)
伊能忠敬時代の銚子は、千葉氏一族、特に東(とう)氏や海上(うなかみ)氏と関係が深い当時の土着の有力者(信太権右衛門家(注1)など)と紀州からの移民の成功者による相互の時代ではなかったかと思われる。
伊能忠敬の出生地、小関村(現九十九里町)は銚子より西方にあり、当時、既に紀州からの移民が入っていたに違いない。
忠敬の生家、小関家は旧家であり、九十九里で捕れた鰯(干鰯)を扱っており関係は深い。
注1:平山藤右衛門季孝の二男平山宗平(伊能測量隊に参加)が婿入りしており、伊能家とも縁が深い。信太権右衛門の名は伊能忠誨(ただのり)日記にも頻繁に登場している。忠誨は伊能忠敬の嫡孫である。
水運の中心が潮来から銚子に移り、銚子が発展していく中で幕末、明治、大正、昭和そして現在に至るまで紀州移民が政治・経済の面で大きな役割を果たしてきている。
紀州移民が成功した理由は初期においては優れた漁法を持っていたこと、十軒党のような支援組織と団結力があった為であろう。幕末から明治と体制が変わる中で、旧体質を引きずらない者の方が時流に乗り安かったとも云えなくもない。しかし、本質的にはフロンティア精神にあふれた海洋民族であったことが成功の第一の理由かも知れない。
 
 
参考資料: 伊能忠敬測量日記、 銚子市史-------------------------------
 歴史地理学調査報告 第八,九号 ( 筑波大学歴史・人類学系 歴史地理学研究室)
  徳山藩お抱え絵師と伊能測量(朝倉南陵のこと) :参考: 周南風土記:小川宣著
 伊能測量隊は山口県を5度訪れている。第5次、第7次と第8次の往路と復路である。南陵らの協力により他藩に比して順調に進んだという。享和元年(1801)南陵は藩命により領地内の村単位の絵図作りをしている。文化3年(1806)には、領内の伊能測量が始まり、忠敬の藩への要求は厳しかったようで各藩も対応に苦慮した。徳山藩おいても、忠敬測量に先行して島々を回り図とりをしている。
後に徳山藩に支藩として珍しく絵図方役がおかれた。
朝倉南陵:宝暦6年(1756)徳山藩浪人阿武六郎右衛門の長男として生まれる。明和4年()1767)朝倉家の婿養子に迎えられる。萩と江戸で絵を学び頭角をあらわす。絵師でありながら藩命により絵図つくりに専念。伊能測量の協力者である。絵師としても多くの作品を残している。詳細は上記参考「周南風土記:小川宣著を参照されたし。
 
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第六次四国測量文化5年(1808)1月~文化6年(1809)1月、測量日数377日 
  測量命令と出発
中国地方測量の経験から、痛切に短期出張の得策であるかを知った翁は、残余の地方を四国と九州に二分して測量する方針を立て当局の同意を得た。四国沿海とその往復の途次(行く途中、道すがら)をもって二、三の街道を実測すべきとの命を受け、文化5年正月25日に江戸を出発する。一行は翁及び下役坂部貞兵衛・下川邊政五郎・伊能秀蔵の外柴山傳左衛門・青木勝次郎(柴山、青木は景保の下役共に描画に秀いで、測量中青木は主として地勢を描写した、門弟植田文助・久保木佐右衛門供侍神保庄作(翁の甥)棹取二人、しもべ5人、計16人であった。 
 
--経路--







 

足摺岬 
  往路の街道測量
文化5年正月25日に江戸を出発。東海道を西に(横浜、小田原、清水)2月6日遠州浜松に到着する。この地より気賀を経て三河御油に至る気賀街道や、山城山科より伏見に達する街道を測り、2月24日大阪に到着。29日同地出発、大鹿村における山崎街道の追分に至る。これより一旦休測して舞子浜に至り淡路岩屋に渡航した。
淡路及び四国測量
3月5日岩屋より淡路島東海岸を南下し、洲本由良を経て南海岸に至り、付属島嶼を洩らさず測量する。
進んで福良より鳴門岬まで測量を成し遂げる。淡路西海岸は帰路に譲り、3月16日阿波撫養(むや)に渡り、この地より四国沿海の測地を開始する。東海岸を南進し徳島に達する。この地に数日長く滞在の後、海岸伝いに甲浦(高知県)に至り室戸岬を回り5月朔日高知に到着する。これより先、忠敬は隊を分班して高知より土佐国を横断し、伊予土佐の国境笹ケ峰に至る街道の測量をさせた。本隊は高知に到着後、滞在地付近の実測を行った。当時、忠敬は持病の喘息に悩んでいた。その平癒をまって、5月7日高知を出発し西進する。分遣班の来合に及んで前後両班を作って交互に測量に従事し、下田を経て6月23日宿毛に到着する。この辺より海岸の出入り複雑化し、付属島嶼また其の数を加え、測量容易に捗らず閏6月21日ようやく宇和島に達した。この所に数日滞在する。7月6日八幡浜(愛媛県)に至り、佐田岬を回測する。長浜を経て八月朔日(陰暦のついたち)三津濱(愛媛県)に到着し、近傍諸島を巡測する。同月11日松山に到着する。それより伊予の北岸及び付属諸島嶼を遍測し、今治を過ぎ9月7日川之江に至る。この地にて忠敬又班員を分遣して川之江、笹ヶ峰間の街道測量を命じ、さきに高知方面よりの測点(笹ヶ峰)に連結した後、讃岐の沿岸を測進する。大浜を過ぎ9月20日丸亀に達す。その後、塩飽群島に赴き10月朔日(陰暦のついたち)には日食をも観測する。更に讃岐の北岸を東行して10月7日高松に至り、小豆島その他の諸島を巡測して高松に帰着。尚海辺伝いに10月8日阿波撫養に到着し、ここに四国沿岸の完測を告げた。それより11日淡路福良に渡航する。分班して忠敬の率いる一班は西海岸を北進し、他班は福良より街道筋を測進する。郡家浦にて両班合同し西海岸を北進する。11月17日岩屋に到達、往路の初測点に連絡して予定を終わる。その後兵庫に渡航し、同月21日大阪に入る。
帰路の街道測量
26日大阪を出発し、大和路を進み法隆寺郡山を経て、奈良に至る街道を測り、それより南下して桜井に至る。多武峯を過ぎ吉野に出て、別路をとって桜井に帰り、初瀬に赴く。転じて伊賀上野を経て12日27日伊勢六軒茶屋に至り、先年の測点に連結し、今次の測量を全て終了した。敬神家の翁は山田で新春を迎え、両宮に参拝の後、文化6年正月18日江戸に帰着する。
 
 
  地方の待遇
この度の測量地方特に四国方面の
諸侯は、忠敬の為測量準備として領内の道路を改修又は新設し、測量に際し手伝い人の外、家臣を出して諸用をさせるなど待遇懇篤(親切で手厚い)をめたが、中には危惧の念を持ち、疑惑の眼を向け見学に事寄せて家臣を同行させ、うに警戒監視を行うものもあった。

製図上呈

忠敬は帰府後、随行の下役及び門弟等と共に測図の製作に従事し7月25日大・中・小三種の地図を上呈した。 
 
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第七次九州(九州第一次)測量文化6年(1809)8月~文化8年(1811)5月、測量日数631日
   測量出発
  忠敬は四国地方測図の調製を終えると、ちに行李を整え下命を待った。文化6年8月27日江戸を出発する。
随行者は坂部貞兵衛外15人。その中に子爵榎本武楊の父箱田良助がいる。後改名して榎本貞興という。
 
  箱田良助と榎本家 
  箱田良助は榎本武揚(えのもとたけあき)の父である。
榎本家は武蔵の国の郷士として御徒士衆の身分で代々徳川に仕(えていた。榎本家三代目武兵衛武由の娘婿として養子に入ったのが
武揚の父円兵衛武規
(養子に入る前は円兵衛、名は真与、通称良助)である。
若い頃から頭が良く藩主に同行して江戸に渡った。当時、幕府はロシアの脅威に北辺の警備に力を入れ始め、北国に探検、国内沿岸の測量が始まっていた時代だった。良助は、蘭学、天文学、測地研究を志ざし、高橋景保や伊能忠敬について学んだ。文化年間に忠敬の
内弟子となり伊能忠敬の実地測量を手伝うことになった。九州第1次、第2次測量に従事。忠敬没後も大日本沿海興地全図完成に寄与した。文政5年(1822)榎本家に婿入りする。天文方から将軍の共回りの御徒士目付にとり立てられ本丸(ほんまる)勤務となり、将軍 からしばしば金子その他を拝領し光栄に浴(よく)した。円兵衛はこの恩を誉とし、徳川に対し深い忠誠心を抱いた。
箱田良助の出身地広島県神辺町箱田には「箱田良助誕生の碑」が建てられています。
 
箱田良助の一札(箱田良助の誓約書)世田谷伊能家文書から
一札の事
一、良助がこの度お弟子にして頂き、西国方面にお連れくださることを感謝致します。お勤めの間は、権威を笠に着るようなことをせず
規則を守り、真面目に勤務致します。また、酒や遊びなどは勿論、不品行なことを致しません。もし、お役に立たず、
お気にいらないときは、どこでも解雇してください。万一、旅先で病死など致しましたら、その場で葬って頂いて結構です。
そのほか、何事も規則通り、注意深くお勤めすることを、お誓い致します。
備後国安那郡箱田村   
文化六巳歳八月 
備中国小田郡大江村 
ーーーー箱田良助ーーー
同人親細川園右衛門
谷 東平ーーー
伊能勘解由 殿
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長期間、身分の違いや測量技量の違いのある大勢の者を統率していくことは測量以上に大変であったかもしれない。この誓約書からもその一端を窺がい知ることができる。

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 榎本武揚 
榎本武揚(えのもとたけあき) 天保7年(1836)8月25日江戸下谷御徒町横町の蔵屋敷に生まれる。函館奉行所に勤め樺太探検に参加、長崎海軍伝習所を経てオランダに留学。其の頃、幕府体制の危機を迎え、幕府は新しい海軍知識を習得してきた榎本らに望みをかけた。軍艦(ぐんかん)奉行(ぶぎょう)勝海舟は榎本を艦乗組頭取にして開陽丸の艦長に任命。1869年(慶応3年)徳川慶喜は大政を奉還し江戸幕府は幕を閉じた。岩倉・大久保・西郷らは王政復古の大号令を発し 戊辰(ぼしん)戦争が起こった。武揚らは開陽丸に乗り組み大阪の警護にあたる。鳥羽(とば)伏見戦争は旧幕府の惨敗に終り、大坂に退いた旧幕府軍は今後の方策を評議。武揚らは主戦論を主張。1868年(慶応4年)8月19日幕府副総裁榎本武揚以下2千人、8隻の軍艦で品川沖から脱出し蝦夷に上陸。函館戦争が勃発した。榎本軍は五稜郭に入城し新政権宣言したが1869年(明治2二年)3月に新政府軍が蝦夷地に上陸し、5月榎本軍は降伏・函館戦争は終った。明治5年(1872年)出獄後、武揚は明治政府に加わり重要な役割を果たすことになる。縁とは不思議: 6代伊能洋氏の母方の祖母伊地知(鑑)は榎本武揚の妻の妹にあたる。
--経路-
(本隊と支隊に分かれての測量であり
経路の記述は複雑。ここでは本隊を主に略記する)

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  往路の街道測量
王子より熊谷に至る街道を測り、それより信濃追分(軽井沢)に至る先年の測地を再査し、この地より新たに行程を起こし、信濃美濃(諏訪、塩尻、木曽、岐阜)近江の武佐(滋賀県)より土山間の街道を測り、又野州(滋賀県)付近にて文化3年の測点に連結し、11月5日(大阪)に至る。このところより山崎街道(京都~西宮間)を測り、摂津の西宮に出て、山陽街道(大阪、岡山、広島)を進み12月24日赤間関(下関市)に到達する。同月27日九州に渡航し豊前小倉に越年する。

豊前豊後日向大隅薩摩の沿海及び横切測量
小倉逗留十余日、文化7年正月12日この地より発足、九州に東海岸を南進し、豊前豊後(中津、国見、別府、大分、別府、佐伯)経て4月6日延岡日向(宮崎県)に到着する。同月27日(日南市)に達し、この所にて、翁は班員を分ち牛峠に至る迄の薩摩街道の一部を実測させる。潟上にて南下の本隊と合流し、都井岬を回測、大隅に入り内之浦近傍までの海岸を測り、高山村波見浦より大隅を横断して、5月24日神の川付近にて鹿児島湾に出る。これより大隅西海岸を南下し、佐多岬を測り、嶮涯荒涛大隅東南岸を測進する。6月11日内之浦付近にて前測点に連結し、休測して再度西海岸神ノ川村に至り大隅の沿岸を北上する。途中翁は分班して福山より都城を経て、牛峠に至る街道を測り、さきの飫肥よりの測点に連結させ、本隊は福山より脇本村に出て分遣班と合流し、6月23日鹿児島に到着する。この地に滞留すること十日。その間、部下に命じて桜島並びに付近を測量させる。翁は宿舎に居て、もっぱら恒星の測量及び木星と其の衛星との交食観測をおこなった。種子島(鹿児島県佐多岬より南方約42km)・屋久島への渡航は風浪険悪げられて後日にった。7月4日鹿児島を発し薩摩半島を周測、7月晦日市來湊村に至り、翌日甑島(鹿児島県の西40kmに浮かぶ島)を回測する。木星の観測をもして、8月19日串木野濱に寄航する。肥後沿岸、天草諸島及び諸街道等の測量をして、8月21日串木野に至る。ここで大手分けを行い、本隊は薩摩西海岸を北進して薩摩肥後境に至り、それより長島獅子島その他の属島を測り、9月18日肥後天草島に渡航し、下島の測量を開始した。他の一隊は串木野・市來湊間の沿海線を測り、市來湊より薩摩を横断して、鹿児島に達する街道を実測する、更にに加治木より八代に至る薩肥街道を測り、八代(熊本県)より肥後海岸を南下し肥後薩摩の境界に至り、本隊の終測点に連結した後、天草島に渡たる。9月20日本隊と合流して、全員で下島を測量する。更に二手にわかれて上島及び属島を巡測し11月12日終結を告げた。これより忠敬の一隊は肥後佐敷に渡り西の方山間に入り、薩肥街道に合する陸路を測り、同月17日八代に至る。他隊は天草より、八代に直行して近傍)島嶼を巡測しここで本隊と合流し、これより肥後海辺を北上し、肥後・筑後の国境に至る。これより南下し、街道測量に転じ12月9日熊本に達し、この所大津を過ぎ豊後竹田に至る街道を測る。翁、又手分けして本隊は久住より大分に通ずる府内街道を、分隊は竹田より犬飼・戸次・鶴崎を経て大分に達する街道を測進、両隊前後して同月28日大分に到着。この地で越年した。斯して文化8年正月4日大分を出発し別府より小倉に達する。豊州街道及び同街道中津より岐れて羅漢寺門前を測り16日小倉に至り、3日の後同地を出発する。翌20日下関に帰着する。

帰途中国近畿本州中部地方の街道測量(略経路)下関より萩間:小郡より萩間:山口より浜田に至る石州街道:萩より鷹巣間:浜田より大森銀山を経、備後三次(広島)に至る街道:石州浜田より広島間:広島より備後三次間:三次より備後福山:福山より油木間:備後東城より備中新見間:三次より帝釈油木高梁)を経て新見に至る街道:新見より岡山の近傍板倉間其の付近より足立・金川を経て岡山に達する小街道:播磨書写山(姫路市)下より広峰増位諸山の神社仏閣を経由する街道:法華山(加古川市)下より有馬湯山(神戸市)間及び中山に至る街道:美濃鵜沼(岐阜県各務原市)より尾張名古屋間:美濃加納より一宮を経て起街道の分岐点に至る間:名古屋より針挙母(豊田市)を経て三河矢作に至る街道:矢作(岡崎市)より西南西尾(愛知県)をへて平板に至る街道:気賀街道の八幡村より信州根羽村間:飯田より伊那部に至り甲信街道金沢(茅野市)を経て甲府に至る間:伊奈部より天龍川に沿い北進して諏訪に至る間及び諏訪より甲信街道金沢に達する街道:甲府より身延間:以上の大小諸街道を測量、甲府より甲州街道を江戸に向って測進文化8年5月8日無事四谷大木戸の起測点に連結を遂げたのである。 
 


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開聞岳
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   地図の上呈と九州第二次測量の待機  
  翁は約半年を費やし属官・門弟と共に製図に従事した。11月に至り文化6年江戸出発以後の測地図を完成して、幕府当局に上呈した後第二次九州測量の諸準備を整え下命を待った。
 
   
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  骨肉の情
 

測量開始以来、東奔西走、全く家郷を忘れたるがも、出張を目前に控えて流石骨肉の情(肉親の情)にえず綿々たる情緒をこめて、長男景敬に下の書簡を送っている。

一筆啓上致候、
愈御揃御清栄御座成さらるべく珍重少なからず候。
この方無異御安意給わるべく候 、
然らば我等出立の儀も?当月二十五日と相定め彼れ之れ支度致候。
其許儀は御病気の儀に候えば、御出府相成らず御加養専一に成さらるべく候、
夫名代におりて女(景敬の妻)登らせ候様、先達ても申遺し候。
三治郎(景敬の長男忠誨の幼名)儀は寒冷の節に有乃候間出府も如何と存候え共、
この度も出入三ケ年余も相かかり申すべく候間出立前対面致し度
間宮林蔵儀も蝦夷地出立相延し当二十日頃に相成、是も三治郎に対面致候、
佐原へ立ち寄り申し度候え共、年内余日も少なく、年内松前着に日限も無之候えば、
佐原立寄覚束なく候様子にも相見え候。
左候えば三治郎儀もおりて一同に御登らせ成さらる可候。
日本に稀なる大剛者の間宮に候えば三治郎対面致させ候も宜しく候。
寒冷には御座候え共、十日前後に出立候様御執り計い成さるべく候 以上
十一月六日
猶々今日は荒井兵兵衛殿並びに高橋氏御越に付客來大取込に御座候。
間宮測量稽古に我等え引越し罷在候己上

伊能勘解由

伊能三郎右衛門殿
平安急用事

上文中、「日本に稀なる大剛(非常に強い)者、間宮に候えは三治郎対面致させ候も宜しく候」と、愛孫(忠誨)と間宮の対面を勧めるあたり忠敬の面目躍如たるものがある。間宮と忠敬は寛政12年蝦夷地で思いがけなく出会あった。以來、親友12年後の文化8年11月ころ、間宮は忠敬に師事して本格的に測量術を学んだのである。
その後、間宮は修得した伊能式測地術を用いて忠敬未踏の蝦夷地を実測し、その成果をことごとく提供した。それにより製図の補足することができた。こうして忠敬は日本全国を完璧に地図(輿地全図)にすることができた。

 
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第八次九州測量(第二次九州測量)化8年(1811)11月~文化11年(1814)5月、測量日数914日
--経路-
(本隊と支隊に分かれての測量であり
経路の記述は複雑である。
ここでは本隊を主に略記する。)

  往路の街道測量
文化8年11月25日、総員数19名で江戸出発する。藤沢より起測を開始、相模・甲州・駿河(平塚、秦野、足柄、都留、大月、甲府、清水)の小街道を実測する。12月17日
興津着後は九州直行を志し、掛川、豊川、伏見を経て12月大晦日山崎街道の一駅攝津郡山に泊り越年する。文化9年正月2日郡山を出発し神戸、岡山、広島、岩国、下関を経て同月25日豊前小倉に到着する。
小倉より鹿児島に至る街道測量
文化9年正月27日小倉発陽春の好季、薩南二島(種子島・屋久島)渡航の目的にて、2隊に分かれて鹿児島に向かう。途中、熊本及び鹿児島街道等を測量する。3月3日鹿児島に入る。

本隊:飯塚、久留米、大牟田、熊本、八代、水俣、横川、鹿児島、
支隊:福岡県山川町、水俣市、阿久根、串木野、鹿児島、

薩摩の好意で、八の測量船隊を編成。多数の手伝い人を同乗させ3月10日乗船、13日出帆、薩南山川湊に3月14日着、滞在22週間、急流で日本一の難所である屋久島安房村に同月27日到着する。高山・川・湿地、4月11日全島を測る。同月26日、種子島間村に上陸する。5月9日を以って周囲及び二條の横切線実測を終り赤尾木湊に滞留、5月22日出帆、23日鹿児島に帰航する。実測日数20日余りであったが、風待ち関係にて日数を空費、70余日をやした。当初二島測量後、薩南諸島を測量する計画であったが断念し、只、視界にあるものにつき遠測法にて単に位置測定をなすに止めた
九州東半部における街道の実測
鹿児島に数日滞在の後、大隈海岸浜の市村より起測,大隈日向沿海街道、日向肥後に通ずるもの、肥後より豊後に達するもの、豊後より豊前(本隊:霧島、日向、延岡、高千穂、阿蘇、日田、耶馬溪、小倉、支隊:えびの、人吉、東郷、蘇陽、阿蘇、日田・・)至るもの等の諸街道を測り小倉に帰着する。
7月16日夜、忠敬はこの地にて月食の観測を行う。

筑肥の沿岸及び街道島嶼測量

7月19日小倉を発し筑前及び肥前、伊万里に至る海岸線(但し出入り複雑の為度々横切複測を行う)及び属島を測る。陸に入り街道を測進、
佐賀を過ぎ大宰府に達し、近傍街道を測り久留米柳川を経て、壱岐
対馬五島彼杵半島残部測量
3月13日壱岐に向う途中に二神島を実測する。後、壱岐郷の浦に着泊。全島の沿岸街道や属島等を実測する。木星と衛星の交食観測をも試み、勝本に順風を待つこと4日、3月28日出帆し、対馬厳原に着く、3月29日より測量を開始し、全島実測の後、5月22日府中出帆宇久島に赴き、7月29日を以って五島の測量を終わる。7月晦日福江を出発し、九州本土に向う
途次、平島大島等を測る。8月8日彼杵半島に帰航、北端より起測、西海岸を南進し八月十七日長崎に到着。9月3日長崎發し、沿海測進野母崎回り、15日矢上村付近にて昨年の島原方面よりの終測点に連接する。九州全海岸線測量はこれで完結した。
九州北部主要街道残部の測量
長崎より大村湾岸時津に至り、忠敬の本隊は彼杵に渡航し、嬉野・塩田を経て、支隊は川棚に渡航し、上陸して波佐見・武雄・北方を経て測進して9月26日両隊共に小城に至る。彼杵にて翁は大村信濃守に謁し測天量地に関する講演を行い歓待を受けた。小城より又分かれ本隊は川上・三瀬を過ぎ支隊は神崎を経て、10月朔日両隊博多に相合し夫より蘆屋街道を秋月より豊前香春に至り、転じて小倉迄、外二、三連接小街道を測量、10月1日小倉に到達、九州測量の全尾を告ぐ
帰路における街道測量
11月14日小倉を出発し、翌十五日山陽道駅より起測、中国近畿の主要街道の残部、(長門、萩、徳山、広島、出雲、松江、鳥取、岡山、姫路、福知山、大阪、京都)美濃飛騨信濃(桑名、岐阜、高山)の二、三の街道を測量、最後は信州追分より上州下仁田を過ぎ武州本庄にて中仙道に繋測。次に熊谷秩父道を西方に進み大宮郷に達し、ここより南に転じ板橋に至る街道を測り、出発以来二ヵ年有半にして文化11年5月22日帰府する。
 
 
白谷雲水峡
標高800m、面積424haの広さ、屋久杉の原生林を鑑賞できる
  出張中の凶変(火災、坂部の死、嗣子景敬の死)

この度の下半期は実に意外の異変が多かった。
第① 文化十年二月には江戸浅草暦局高橋役所が火災に遭い、翁年来の苦心に成る暦局備付けの木星とその衛星の交食観測簿等の他、重要書類が測量器と共に灰燼(灰と燃えがら)に帰した。
この凶報は文化14年4月翁の
対馬実測中のことであった。
第② 坂部貞兵衛が6月下旬日之島にて病に犯され、その後、福江(福江島)にて療養中であったが、7月15日ついに客舎(宿屋)にれた。貞兵衛は数学を古川謙に学び、暦局に出仕し高橋景保の属官となり、翁が文化2年西国地方の実測を開始以来、支隊長となり班の重鎮として始終業務を補佐し、翁(忠敬)無二の腹心であった。翁より郷里の景敬へ送った手紙に御存しの通り測量につき候ては年来の羽翼に御座候間、鳥の翼を落とし候と同様にて、大いに力落とし愁傷(嘆き悲しむ)いたし候(中略)自我等大骨折りに御座候とあるのを見ても其の落胆が想像できる。
懇に葬儀を営み同地宗念寺に埋葬、休業一週日班員と共に冥福を祈った。
第③ 文化10年8月17日付けを以って更に又慟すべき一大悲報が高橋景保より伝えられた。
それは嗣子景敬危篤・・・実は死去の報であった。忠敬がこの
訃音(死の知らせ)に接したのは桐の葉に秋聲を聞く9月半の頃、景敬は既に6月7日を以って他界していたが天涯孤客(ひとり旅の人)の忠敬の心中をり、一家眷族(血のつながりのある一族、親族)はく之を秘し、に至って遂に其の処置を講じたのであった。

転居と九州第二次測量地図の調整


転居

深川黒江町の住宅は寛政7年出府以来測天量地の原点であり20年も住み慣れてはいるが
如何せん狭隘で地図製作上だ不便を感じるので、何れかへと思う矢先、遇々八丁堀亀島町住居の縁族桑原氏、他に移転することになったのを幸いに、早速その跡の屋敷を求め、文化11年6月3日そこに引越をした。
九州第二次測量図面の調製

府内街道の測量

忠敬は従来江戸の寓居より各方面の実測を行うにあたり、府内の街道は単に歩数もしくは量程車によって概則をなすにとどめ、その出入の門戸に当たる各大木戸から精測を開始したのである。これは府中測器を使用することの手続きが大変複雑でわずらわしい為であったが、各大木戸の諸点と道程起算の原点たるべき日本橋との間の精測を必要としたのである。文化11年冬幕府当局の了解を得、翌12年2月中、日本橋から5街道出口に至る迄を改めて測定し、直ちに其の地図をも作製した。 
 
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第九次伊豆七島測量
文化12年(1815)4月~文化13年(1816)4月、測量日数340
 
  測量受命

忠敬は西国地方の測量が終わると、伊豆半島東海岸を再測して先年の測量を校訂すると共に、伊豆七島を実測して沿海図の完備をしようと考え、文化12年春、江戸府内街道緊測を終えたのち、伊豆七島及び地方会海辺並びに街道測量の命を受けるに至った。

測量班出発

この時忠敬の年齢71歳、健康もまた昔日の比ではない。長女妙薫を初め、高橋景保に至るまで忠敬が険悪を犯して荒海を渡り、七島の実測に従事することを危ぶみ、強く渡航の断念を求めた。
そこで受命地には下役永井甚左衛門を長とし下役坂部八百次(貞兵衛の子)門谷清次郎外に内弟子2名竿取宰領従僕等を加え合計11人を以って測量班を組織し、文化12年4月27日江戸を出発した。
 
 
--経路--
往路の測量
文化12年4月27日総員数11名で江戸出発。藤沢、小田原、下田街道(三島、韮山、天城、下田)。伊豆七島(三宅、八丈、漂流して三浦、御蔵島、三宅、神津島、新島、利島、下田、大島)下田に戻る。

石廊崎(2010)
下田市トップページ
八丈島町HP八丈島写真館より リンク
帰路の道測量
伊豆東海岸等(河津、伊東、)を実測して熱海にて越年、文化13年正月26日熱海を出発、三島、裾野、御殿場、富士藤市、箱根、箱根芦ノ湖。相模、武蔵の諸街道(平塚、大和市、町田、入間、川越、熊谷)。荒川筋等(上尾、戸田、川口)測量。4月12日千住到着府内街道測点連結を終わった。

  伊能隊は出張中、和衷協同(仲良く協力し合って)その任務を遂行した。製図の完成時期は判明していないが、帰府後あまり日数を要しない時期と思わる。
 日本輿地全図製作の受命並びに関東地方再測の画策
  伊豆地方(諸島)測量隊派出中の文化12年より翌13年に亘り、江戸に留っていた忠敬は従来調製した各地方の地図を総合校訂して、その本輿地全図(伊能全図)を制作すべき命を受け、この準備に従事した。
みるに西国地方は忠敬が幕臣に列して後、種々の便宜と多くの歳月を費やして測量したものであるが、関東地方は一介の浪人として、せて短日月の間に測量したもので、街道等は二、三の主要幹線の測量に留まり、霞ヶ浦・利根川等を初め幾多の河川湖沼
全く実測を欠き、前者と後者は精粗優劣の差が甚だしかった。忠敬にとって測量は自己の天職であり全生命であった。
忠敬は輿地全図作製に先立ち、これら補測の実施を企画したが残念にも議論は成らなかった。(忠敬のお膝元であるこれら地域の測量が精彩を欠くことになったことは非常に残念なことである)
 
 
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江戸府内測量
  上呈した江戸府内街道測図は当局の感興(面白みを感じること)を誘発する処多く,遂に江戸府内再測の命を受けることとなった。
文化13年閏8月8日、測量に着手し同年10月23日に終えた。
翌文化14年4月縮尺六千分の一の製図成って官府に上納した。
この府内測量こそは櫛風沐雨、実に17年の踏測60余州に及ぶ忠敬の測量はここに終止符を打ったのである。
注:櫛風沐雨・・・(荘子(天下)より「風に髪をくしけずり雨にゆあみする」の意、風雨にさらされながら走り回って苦労すること。
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忠敬の測量が極めて高度なものであったことから、その後、徐々に幕府からの支援は増強され国家的事業に育っていった。
この測量により、緯度1度がおよそ111km程度に相当すること、またそれを元に、地球全体の外周がおよそ4万km程度であると推測した。この値は、現在計測されている数値と0.1%程度の誤差であり、忠敬の測量の正確さが窺える。
 
 
 
深川フロア展に見る江戸


 
輿地全図製作



八丁堀亀島町伊能忠敬役宅跡
(現中央区日本橋茅場町)
    忠敬は自宅内に設けた地図御用所にあって、もっぱら下役及び内弟子し、既往十余年間に得た実測材料を整理総合して製図事業に鞅掌(仕事が忙しくて暇のないこと)した。
文化13年中、数ヶ月に
って府内再測に力をつくし、又間宮林蔵の実測材料の提供によって新たに蝦夷地の全面を訂正したので相当の日時を費やした。かつ、下役、内弟子が病気や事故で業を廃する者が出る等、意外に支障もあって完成期は遷延(長引くこと)せられた。
文化14年12月12日付け、韮山代官江川英毅宛の忠敬の書簡に、今後2ヵ年にて地図完成の見込みと発表されているが、この計画沿って使命の達成に没頭していた忠敬であったが、神ならぬ身を知るべき由も無く、これより4ヵ月の後、ふと仮初の床に就き、再び起つこと能わず、巨木も朽ちては嵐に堪えず偉人は遂に逝った。 そしてさらに長引くことにたった。忠敬没後満3年余、輿地全図は出来上がったのである
 

偉人の死
 
  忠敬は元来健康体ではなく、持病の痰咳に時々悩まされていた。あわせて56歳より70歳までの15年は野外業務に忙しく暇がないうえ、険阻(地勢がけわしいさま)・狂瀾(荒れ狂う大波)越え寒暑ぎ風雨に曝されたので、輿地全図作製に従事していた73歳の頃は、積年の疲労一時に現れ、かに衰弱したもようである。
長女妙薫に与えた手簡に 
「我らも先日より大にしく寒熱も無く咳嗽(せき、しわぶき)も鶏卵の功験(霊験をあらわす)にや段々減申候此様子にては一両年は何事も無存候」  とあることからも窺われる。
最後まで下役内弟子暦局の属員等を指揮して、地図の製作を監督し、門人の質疑に応答するなど、生来の精根は未だ無くなることなかったが、文政元年4月、病漸く篤く、その12月「
我がなきがらは高橋先生の墓側に埋めて」との一語を遺して目を閉じた。享年74歳  
 
 

浅草源空寺:(左)高橋至時、(右)伊能忠敬墓
輿地全図未完成の為、その喪を暫く秘密にすることとし、日を改めて遺骨は遺言通り浅草新寺町源空寺の高橋先生の塋側に葬り、有功院成裕種徳居士と諡した。
文政4年7月大日本沿海輿地全図及び與地実録完成され幕府に上呈した後、9月4日を以って喪を発表した。
幕府は文化史上余りにも巨きな足跡を印した翁の功績を追賞し、嫡孫忠誨に5人扶持及び町屋敷を給しかつ永代佩刀を許された。
古人は曰ふ「貧しきは恥ずるに足らず。恥ずるべきは是貧しくして志なきことである。賎しきは悪むに足らず、悪むべきは是れ賎しくして能なきことであり。老は嘆するに足らず、嘆すべきは是れ老いて虚生きることであり。死は悲しむに足らず、悲しむべきは是れ死して聞ゆるなきことあり」と
 
 



(伊能忠敬亡き後)
   忠敬は死後の計として幕臣たる身分は自己一代に止め、その俸禄(俸と禄、扶持、給料)と累世佩刀(刀を腰におびること、帯刀)の栄典は佐原の伊能家に伝え、子孫は郷士として且つ我が志業たる星暦(年月)の学をも攻究継承させようとの念願であった。(文化11年西国実測帰府後古稀(70歳)に達せし忠敬が、当時の慣例によって認めた、小普請組頭の許に提出した心願書の内容に示されている。)  
 
後継子孫
(嫡孫忠誨)

  伊能家後継者嫡孫三治郎忠誨は忠敬の旨を受け、江戸にあって佐藤一齊(師は大学頭儒者、言志録講話著)に学んだ。しかし、齢13の文政元年は彼にとって実に大変な年となった。4月には忠敬が、6月には実母が、11月には実弟銕之助が病没した。彼にとっては伯母(妙薫)が唯一の頼れる保護者であった。忠敬の死後、妙薫は彼に漢学だけでなく家学の兼修をさせるため、暦局員足立左内について、暦算を研鑽させた。かくて忠誨は祖父忠敬の遺業を継いで御用所の管理に当たったのである。   

忠敬の嫡流断絶

 
 
  忠誨は暫く江戸に留まって勉学と家業を踏襲していたが、文政5年11月佐原村に帰郷した。祖先の遺業を遵り家事に専念した。
しかし、家学(特定の家に代々相伝されてきた学問)は全然發せず、邸内に天測諸儀を設け観測に従事し、年に1、2回は両3ヶ月程、江戸に出て研修に勉めていた。
元来蒲柳の質(体がほっそりしていて病気なりやすい、虚弱)にて、文政10年(1827年)2月12日、22歳を以って夭折(若死に)し、翁の嫡流は絶えた
 

伊能家家訓(旧宅内の碑)
 
 
資産の保管

   これにおいて親戚永沢治郎衛門の幼児駒吉を、継嗣と定めたが事情あって之を廃した。忠敬が半生の心血を濺いて回復した伊能家の資産もまた危殆(あやういこと)に瀕したので、地頭津田氏は名門の頽廢を惜しみ、親戚の一人、伊能茂左衛門(節軒)を挙げて、全資産の保管をさせた。  
  伊能家再興伊能茂左衛門節軒による)
   忠誨の歿後、約30年安政年間に至り、姻戚に当たる上総武射郡屋形村(山武郡横芝町)海保長左衛門の三男景文(通称源六)を迎え、伊能茂左衛門節軒の次女(いく)を配して忠誨の後嗣とした。景文に男子なく、景文の後妻ひさとの長女に一族、伊能七左衛門成徳の次男端美(家督相続後三郎右衛門と改む)を婿養子とした。
注)   伊能茂左衛門10代 景晴と云い、節軒と号す。常陸潮来の儒学者、贈従四位宮本茶村に学び識見に富み、醤油醸造業の傍ら公共事業に盡瘁し藍綬褒章を下賜せられた地方傑出の人物。
 
 伊能茂左衛門節軒の逝去連絡書簡

 明治19年3月19日逝去

  伊能
源六(景文):伊能三郎衛門家14代:節軒は景文からみて
義父にあたる伊能七左衛門
成徳と思われる
  宛て:宮内克太郎
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 ( 後書きから )
 伊能忠敬に関する考察

考察1:忠敬はどうして偉業をなしえたか
 
   三冶郎時代の忠敬は不遇に書かれてきたが果たしてそうであったろうか。幼少にして母を亡くし、小関家に残されるが、神保家に戻ってからは、縁戚に当る平山季忠の我が子以上とも思えるバックアップを得ている。恵まれた環境で育ったと見るべきであろう。

平山季忠は、幕府学問所の昌平黌に学んでおり、江戸の学者や医者の人脈があり、本草学者の平賀源内などとも面識があった。地方においては名主ネットワークもあった。忠敬が大きく育つに一役も二役も果たしたに違いない。学僧から数学を学んだことも、医学を志すに至る過程においても、土浦に出て医学を学ぶことができたのも
平山季忠の助力なくしては不可能である。当時の一般庶民の子にできるはずもなく恵まれた環境であった証拠である。
伊能家婿入りに際しては、自分の養子とし、林鳳谷の命名であるが季忠の「忠」の一字まで与えている。大変な力の入れようである。
少年三治郎(忠敬の幼名。婿入り前は佐忠太と名乗る)には平山季忠をしてほっておかせない何か(向学心・野心・青雲の志・大業成就の願望)魅力があったのではないだろうか。

当時、小関家のあった九十九里町は干鰯(ほしか)で賑ぎわっていた。取引も活発で実学の算盤等の他、和算も庶民の間に広まっていて学ぶ者も多かったようだ。和算は実学というより道楽に近いものとされている。地域経済的に余裕があり文化的にも発展していた証拠といえる。忠敬はそのような
地域環境の中に生まれたのである。

養家伊能三郎右衛門家は永沢治郎衛門と並んで、佐原で両家と呼ばれる名家であった。それは単に名主という理由だけでなく飢饉に際しては窮民救済に尽力したからにほかならない。
佐原一帯は時々利根川の氾濫による被害にあっていた。村方は復旧に全力を尽くすと共に村民の納得の行く形で荒れた田畑を再配分しなければならない。それには測量技術は勿論、文書により記録に残すことが重要であった。達の祖父景利は村方在任中に多くの記録を残していた。忠敬は測量技術のみならず、それら伊能家の貴重な資料に助けられ仕事ができた。記録の重要性についても学んだに違いない。測量日誌にも見られるメモ魔ともいえる程のまめさは景利から学んだものであろう。忠敬は三郎右衛門時代に
地域佐原から極めて多のことを学んだといえるのである。

 三郎右衛門家と茂左衛門家は小野川を挟んで対していた。その伊能茂左衛門家七代当主
伊能魚彦は長男に家督を譲り三十七才で賀茂真淵に弟子入りし、四天王といわれる高弟となった。二十三才年下の忠敬にとって、手本となったであろうことは十分に推測できる。

 伊能家を再興させた忠敬は長男景敬に家督を譲り隠居して、念願の学問により身を立てることを実行に移すだけの
財力ど余裕を身につけた当時、忠敬の地元佐原は利根川の水運を介して潮来・銚子・江戸も含めて同一の文化圏であり、経済圏であったと云えないだろうか。その圏内の情報と財力をいかして、江戸に出たのであろう。忠敬の幸運はその情報網から、高橋至時という良き師にめぐり会えたことにある。改暦事業のため麻田剛立一門から送りこまれた至時との運命的な出会いこそ、偉業達成のまさに偶然のなせる業である。
 
時代背景として、ロシアの南下や林子平の海防論などから北境の警備の急務を悟った幕府は蝦夷地の巡視警戒をさせた。そのような状況下、正確な地形図が必要になっていた。
徳川吉宗による
禁書の緩和(1720年)で学術書が輸入され西欧の学術・技術が入ってくるという時代的幸運も見逃せない。(冨吉繁貴氏指摘)

偉業達成の要因は、生家の地域環境・養父平山季忠・養家伊能家・佐原の地域社会・先輩伊能魚彦・水運で結ばれた文化経済圏から得た情報・良師との出会い・ロシアの南下による国難などの外的要因などが挙げられる。しかし、それらの要因を一身に集めて幸運児になれたのは
忠敬の資質によるものであろう。

六十を過ぎてからの測量は忠敬にとって大変厳しいものであったに違いない。忠敬には持病があり必ずしも健康体とはいえない。一病息災とし
健康管理を徹底し、長期の測量に耐えられる体と心を維持している。普通に言う責任感・使命感、ましてや俗に云う功名心などで出来ることではない。私には執念とも思える使命感であり行動力のようにみえる。それらは測量を通して忠敬自身の中で、天命と言わせるほどに昇華したのではないだろうか。実に櫛風沐雨(しっぷうもくう)17年、距離にして地球を一周、歩数にして5千万歩(歩幅69センチ)、測量日誌51冊 である。

忠敬はなぜ天文・測量という分野を選んだか

1:幼少より数理に関心があったのみならず、平山季忠の影響もあり学問により身を立てたいという熱い願望が育っていた。
2:三郎右衛門時代に測量や天文について独学であったが既にかなりの実力を身につけていた。
3:士農工商の身分社会において、医学や、天文などは他の学問分野に比して、実力が正当に評価される分野との判断があったのではないだろうか。日食や月食の計算は、はっきりした形で結果が出てくる。門地や身分の違いがあっても先端技術の分野では重く登用せざるを得ない。麻田剛立は関西の庶民学者であったが幕府はその実力を認めざるを得なかったのである
 
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考察2:忠敬周辺に見られる人脈について


 
  それは暦学や天文・工学・蘭学・医学に止まらない。思想や政治とも絡み合い複雑で混沌としているが、忠敬周辺の人脈から明治に繋がる大変革の兆しを読み取ることができるのである。ここでは人物名と関連事項のみ列記し人脈を考察してみたい。

忠敬の命名者である林鳳谷の林家の人物関連
鳳谷は初代林信勝(羅山)から五代目にあたる。九代の
林衡(述斎は松平定信の寛政の改革に際会し、昌平坂学問所の開設(昌平黌を公的学校とした)に尽力して学頭となり林家中興の主といわれる。洋学弾圧で知られる鳥居耀造は述斎の三男である。述斎の弟子に佐藤一斎がいる。一斎は林述斎と共に多くの門下生の指導にあたった。また、昌平黌の儒官となり日米和親条約に際して林復斎(述斎の子)を助け外交文書作成に尽力した。幕末から明治にかけて大きな影響を与えた人物である。佐藤一斎の弟子に、山田方谷、渡辺崋山、佐久間象山らがいる。伊能家との関連で見ると上野源空寺伊能忠敬墓石側面の碑文も一斎によるものである。また、忠敬の嫡孫忠誨の師でもある。一斎の弟子で田原藩の渡辺崋山は江戸詰年寄の末席となり海防を担当した。また、シーボルト門下でもあり高野長英ら蘭学者と交わり「蛮社の獄」に連座し自刃した。
 一斎の弟子で松代藩の佐久間象山は幕末の思想家であるが弟子に
吉田松陰、橋本左内らがおり、吉田松蔭は高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋ら明治につながる多くの門下生を輩出している。

暦・天文・蘭学・通詞・医学の人物関連
麻田剛立その弟子に間重富高橋至時(忠敬の師)片山蟠桃等がいる。間重富の弟子に久米栄左衛門至時の長男高橋景保次男渋川(高橋)景祐足立左内(信頭)景祐の長男渋川六蔵等々、通詞馬場左十郎、大槻玄沢等がいる。忠敬の嫡孫忠誨は足立佐内について研鑽している。
大槻玄沢は杉田玄白と前野良沢の弟子で仙台藩医である。忠敬後妻信の父桑原隆朝も仙台藩医であり何らかの関係があったのではないか(冨吉繁貴氏指摘)。伊予宇和島藩は伊達氏であり洋学に熱心である。
工業技術の面では大野弥五郎、弥三郎、規周等、明治につながる技術の伝承がある。
忠敬の弟子に間宮林蔵、榎本武揚の父箱田良助がいる。榎本武揚は函館戦争に敗れたが、彼の才能を惜しむ黒田清隆らの助命運動により釈放され、その後明治新政府で活躍、ロシア全権大使、清国大使、逓信、農商、文部、外務の各大臣を歴任し、子爵にまでなっている。
江戸の儒学者山本北山の弟子には大窪天民
宮本茶村、梁川星巌(勤皇の詩人)がいる。
忠敬の内妻とされる(客分)大崎栄も山本北山の弟子であった。

水戸学及び佐原・潮来周辺地域の人物関連

水戸藩主徳川斉昭、水戸藩の藤田幽谷、会沢正志斎、藤田東湖ら尊王攘夷思想。郷土の学者久保木清淵、宮本茶村等がいる。水戸学は吉田松蔭らに大きな影響を与えたと考えられている。
吉田松蔭は宮本茶村宅に宿泊している。茶村の獄中生活が松蔭の獄中生活に影響を与えなかっただろうか。

忠敬の時代以降の幕府天文方は最先端の知識人・技術人・科学者を集めたアカデミック集団であった。そのような環境下で忠敬は偉業を達成することができた。そして、その人脈は日本の近代化に大いに力を貸すことになったのである。


忠敬は三人の妻に先立たれ、晩年、信頼篤い坂部を亡くし、長男景敬にも先立たれる等、必ずしも幸運とは云えない面もあるが、自ら信ずることをやり遂げ、後年、絶大な信頼を寄せていた長女妙薫に嫡孫忠誨の後見をさせて、後に起こるシーボルト事件や忠誨の早世を知らずに他界した。そして、現在、全国各地にファンを抱えている。稀にみる幸せ者に違いない。(敏)
 
 
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伊能忠敬関連年譜     伊能家家紋
     
西暦 元号 忠敬
年齢
忠敬及び・関連する事項国外関連事項(イタリック)  
1639 寛永16年 : 鎖国完成。
1716 享保1年 : 吉宗 享保の改革。
1728 享保13年 : 平賀源内 讃岐に生まれる。
1734 享保19年 : 麻田剛立 現大分県杵築に生まれる。
1738 元文3年 : 林子平 生まれる。
1742 寛保2年 : 忠敬の妻(達(みち)の父長由(ながよし)が亡くなる。
1743 寛保3年 : 伊能昌雄(長由の兄)亡くなる。
1745 延享2年 1 正月11日上総国山辺郡小関村に生まれる。幼名小関三治郎。
1751 宝暦元年 7 12月、母と死別、父貞恒は兄貞詮、姉フサを伴い実家上総国武射郡小堤村神保氏へ戻る。
1754 宝暦4年 10 アメリカで英仏植民地戦争。
1755 宝暦5年 11 母の家を去って父の実家に帰る
佐原伊能家:長由の一人娘達(14歳)に一族(伊能七左衛門家)伊能景茂を迎えて配となす。
最上徳内 現山形県村山市に生まれる。
1756 宝暦6年 12 奥州の大飢饉により佐原村に浮浪者が流入する。
間 重富、大阪の質屋の子として生まれる。

ヨーロッパで七年戦争。
1757 宝暦7年 13 忠敬:この頃常陸某寺の僧につきて数学を習得す。
6月伊能氏の女婿、景茂没す。年21。冬、伊能氏の女景茂の長男忠孝を産む。
平賀源内 我が国初めての物産会開く。
1758 宝暦8年 14 伊能家佐原村の貧民救済のため米58俵出す。
1760 宝暦10年 16 伊能氏の女を達(ミチ)と改める。
1761 宝暦11年 17 この頃常陸土浦の医者の許に寄食し経学を学ぶ。
1762 宝暦12年 18 2月伊能氏の女の後配となり家を継ぎ通称を三郎右衛門忠敬と改める。(伊能家へ婿入り
村民より推されて名主後見となる。
麻田剛立、官暦の日食の予報の誤りを指摘する。
久保木清淵生まれる。
1763 宝暦13年 19 2月長女稲生まれる。 9月伊能氏先夫の子忠孝没す年7歳。
1764 明和元年 20 3月初めて出府する。
実父神保貞恒、宗家より分家一家を立つ。
高橋至時 下級武士の子として生まれる。
1765 明和2年 21 7月、大山石尊へ参詣する。病気のため暫く静養する。
1766 明和3年 22 長男景敬生まれる。凶作には米銭を発して窮民を救う。
1769 明和6年 25 2女篠生まれる。江戸に薪問屋を開く。佐原村の祭礼で紛争があり有力者である永沢治郎衛門とつきあいをやめる。
高田屋嘉兵衛 淡路島百姓の子に生まれる。
1770 明和7年 26 8月江戸薪問屋類焼する
1772 安永元年 28 幕府が佐原村の河岸に課税、忠敬らが反対したが結局出すことになる。
麻田剛立:大阪にでて医業をしながら天文観測、研究に没頭する。
田沼意次:老中を兼任する。
1774 安永3年 30 佐原村河岸課税事件を「佐原邑河岸一件」という記録まとめる。
11月養母民(伊能長由の妻)没す。年52。
杉田玄白・前野良沢ら解体新書著す。
1775 安永4年 31 間宮林蔵生まれる。(安永9年説もある)
長久保赤水「日本輿地路程全図」を作る。

アメリカ独立戦争。
1776 安永5年 32 アメリカ合衆国独立。
1778 安永7年 34 5月より6月に亘り、妻達を伴い奥州松島方面を漫遊する。
佐原の地御料所より転じて津田日向守の采邑となる

ロベール作 日本図。クック ハワイ上陸。
1780 安永9年 36 現東かがわ市に久米栄左衛門生まれる。
第四次イギリス・オランダ戦争。
1781 天明元年 37 8月地頭より本宿組名主を命じられる。
1782 天明2年 38 幕府、浅草に天文台を移設する。正月実父神保貞恒没す。年73。
1783 天明3年 39 7月に浅間山大噴火、利根川洪水、凶作。堤防の改築に尽力する。
飢餓に付き私儲を発して窮民を救恤する。9月地頭より苗字及び旅次佩刀を許される。
12月、配伊能達没す。年43。              
工藤平助「赤鰕夷風説考」、大槻玄沢「蘭学階梯」出る。
古川古松軒 修験者姿で山陽九州を歩く後に「西遊雑記」にまとめられる。

アメリカ、パリ講和条約により独立戦争終結。
1784 天明4年 40 8月本宿組名主を罷め、村役後見を命ぜられる。
最上徳内 蝦夷地検分隊に使命される。(第一回渡海)
1785 天明5年 41 高橋景保生まれる。林子平が「三国通覧図説」刊行する。
実父神保貞恒の後配戸村氏没す。年64。
幕府、山口鉄五郎・最上徳内らに樺太探検させる。

ラ・ベルーズ太平洋探検航海~1788年。
1786 天明6年 42 関東大飢饉に付き私儲を発して窮民を救恤する。関西より米を買い付け窮民を救う。残米を江戸で売り利益を得る。
ニ男敬慎生まれる。(母・内妻妙諦)
最上徳内:3月10日国後着、4月18日択捉着、七月ウルップ着。
田沼意次 失脚する。
1787 天明7年 43 徳川家斉11代将軍となる。
松平定信 老中になる。 寛政の改革。
1788 天明8年 44 3男順治生まれる。(母・内妻妙諦)
12月、二女篠(加瀬修助妻)没す。年20。
この頃伊能家の年間酒造高1480石で佐原第二の酒造家。
古川古松軒 幕府巡見使に随行後「東遊雑記」にまとめられる。

アレキサンダー・マッケンジーカナダから北氷洋横断成功。
1789 寛政元年 45 三女琴生まれる。(母・妙諦)老中松平定信、寛政の改革始まる。
最上徳内 7月15日西蝦夷に赴く。
1790 寛政2年 46 内妻の妻妙諦が亡くなる。26歳。
仙台藩医桑原隆朝の女信(ノブ)を納れて継室となす。
隠居願いを出すが許されなかった。
1791 寛政3年 47 景敬に家訓を与える。林子平「海国兵談」を刊行する。
最上徳内 4月16日択捉島に上陸、東蝦夷道中記を著す。

イギリスに陸地測量局設立。
1792 寛政4年 48 2月地頭津田氏より3人扶持(1日1升5合)を給される。
幕府林子平を罰し「海国兵談」を絶版とする。
ロシアの使節ラックスマンが根室に来て通商を求める。
最上徳内 四月中旬 樺太シラヌシに上陸(樺太の原図を多く作成)。

マケンジー、カナダ横断探検。
1793 寛政5年 49 2月より6月に亘り京阪地方を漫遊する。
近隣の津宮村の名主・久保木清淵等と関西旅行し、「旅行記」を書く。
宮本尚一郎(茶村)生まれる。

フランス・ルイ十六世処刑
1794 寛政6年 50 正月、三男順治 夭す。年7。
家を長男景敬に譲り、
隠居し三人扶持を辞す。
隠居扶持として一人扶持を給される。通称 勘解由と改める。
1795 寛政7年 51 3月継室桑原信、江戸生家に没す。
5月出府深川黒江町に僑居をトす
高橋至時幕府天文方となる。至時の弟子間重富も暦局に入り暦の改定に当たる。
忠敬
高橋至時(31歳)の門に入る
忠敬多年の勤功により地頭所より景敬に称姓及び旅次佩刀を許す。
1796 寛政8年 52 隠居扶持を辞す。
地頭所より景敬に村役後見命じ三人扶持を給す。
シーボルト、ドイツバイエルンに生まれる。
1797 寛政9年 53 白昼金星の南中を観測する。
1798 寛政10年 54 客分の名の下に大崎栄を納れて内妻とする。
近藤重蔵がエトロフ島を探検する。
間重富 大阪にて幕府天文方御用を務める。
久米栄左衛門 大阪間重富のもとに入門し測量、天文を学ぶ。
5月20日大河内正寿を隊長とする180名からなる調査隊江戸出発。
徳内6月16日松前着7月25日国後で近藤重蔵と合流する。

ナポレオンエジプト遠征。
マッシュ・フリンダースのオーストラリア探検。
1799 寛政11年 55 幕府北海道の一部を直轄地とする。
高橋至時(忠敬の先生)、間重冨の師麻田剛立が亡くなる。
1800 寛政12年 56 第一次測量、蝦夷地測量
閏4月19日より10月21日に亘り蝦夷東南海岸及び奥州街道を略測する。
北海道で
間宮林蔵に出会う。12月その地図を上呈。
徳内 「蝦夷草紙」後編三巻完成。
1801 享和元年 57 正月幕府より天明年間両度賑恤を行いたることを賞して銀錠を賜り
称姓及び旅次佩刀を許可せられる。
第二次本州東岸測量
4月2日より12月7日に至り、伊豆より陸奥に至る本州東海岸及び
奥州街道を実測する。
1802 享和2年 58 3月昨年測量した地域の地図が完成する。
子午線1度法を28里2分と定める
第三次羽越測量
6月11日より10月23日に亘り陸奥より越後に至る海岸出羽街道
越後街道を測量する。
1803 享和3年 59 正月、昨年測量した地域の地図を草稿のまま閲覧に供す。
第四次尾張及び越前以東残部測量
2月18日より10月7日に亘り、駿河より尾張まで及び越前より越後に至る海岸及び尾張より越前に至る街道、越後寺泊より高崎に至る街道並びに佐渡等を測量する。(第4次測量)糸魚川で現地藩役人と考え違いがあって勘定所に訴えられる。 高橋至時「ラランデ暦書管見」著す。
1804 文化元年 60 高橋至時40歳病死、8月尾張及び越前以東の沿海実測(日本東半部沿海地図)成り上呈す。
家斉の上覧を受け幕吏に登用される。
9月小普請組に補し、十人扶持を給い、高橋景保手附手伝いを命ぜられる。
十二月西国円海辺測量を命ぜられる。

ロシアの使節レザノフ長崎来て通商を求める。
アメリカ、ルイスとクラークによる西部探検。
ナポレオン皇帝即位。
1805 文化2年 61 第五次西国測量
2月25日、江戸出発東海道筋伊勢、紀伊を経て備前に至る海岸と
淀川筋、琵琶湖を測量、岡山で越年する。
徳内 3月15日目付遠山金四郎の随員として蝦夷地派遣される。
徳内 国防計画の急務を老中堀田摂津守正敦に訴える。
1806 文化3年 62 備中以西の山陽海岸及び諸島?山陰及び若狭海岸隠岐等を測量し11月15日江戸に帰る。第五次測量終了。
久米栄左衛門高松藩から藩内の測量を命ぜられる。
参考資料巻末に収録 「久米栄左衛門通賢について」
長孫忠誨(ただのり)生まれる。
1807 文化4年 63 12月 文化2年及び文化3年測量した地域の地図が成って上呈する。
久米栄左衛門、伊能忠敬讃岐測量案内役を務める。
参考資料巻末に収録 「久米栄左衛門通賢について」
徳内 5月ロシア船攻撃に対処すべく函館に赴任する。
1808 文化5年 64 第六次四国測量
正月25日江戸発して気賀街道四国及び淡路の海岸大和及び
伊勢街道などを測量し伊勢山田に越年する。
間宮林蔵と松田伝十郎がカラフト探検に赴く。
秋、
間宮林蔵は単身再度樺太探検へ。
1809 文化6年 65 正月18日江戸に帰着。第六次測量終了。
7月昨年測量した地域の地図が成って上呈する。
又命によって日本輿地全図を仮製する。
第七次九州(一次)測量
8月27日江戸を発して、中山道(中仙道、幕府は中山道に統一表現)
及び山陽道及びの街道筋を測量し、豊前小倉に越年する。
1810 文化7年 66 豊前・豊後・日向・大隅・薩摩・肥後の海岸、天草諸島並びに熊本より
大分に至る街道等を実測して豊後大分に越年する。
次孫銕之助生まれる。
4月長女稲の夫盛右衛門没し、稲は薙髪して名を妙薫と改める。
仙台藩江戸詰医桑原隆朝(忠敬の後妻ノブの父)亡くなる
1811 文化8年 67 中国諸街道、三河より信濃に至る街道、甲州街道等を測量して5月に
帰る。第七次測量終了する。
11月文化6年以降測量した地域の地図が完成し上呈する。
第八次九州(第二次)測量する。
11月25日江戸を出発し、相甲駿の小街道を実測し摂津郡山駅に越年する。
この頃二男敬慎出て桜井氏の女婿となる。
佐久間象山、信州松代藩に生まれる。

パラガイ・ベネゼラ独立宣言。
1812 文化9年 68 筑前筑後及び肥後の一部の種子島屋久島並びに九州諸街道を測量して肥前国賤津浦にて越年する。
1813 文化10年 69 九州残部の海岸及び街道、壱岐対馬五島並びに中国における諸街道を
実測して姫路に越年する。6月長男景敬没す。48歳。
副隊長の
坂部貞兵衛(42歳)が亡くなる
1814 文化11年 70 近畿に於ける主要街道の残部濃飛信の二三の街道等を測り5月22日江戸に帰る。第八次測量終了する。
6月居を
八丁堀亀島町に移す。地図ご用所とする
6月、
景敬の喪を発し、嫡孫忠誨に其の後を継がせる
この頃二男敬慎、養家より離縁せられ11月より忠敬の許に寄食する。
1815 文化12年 71 江戸府内第一次測量
2月3日より17日にかけて江戸府内街道筋を繋測する。
その頃九州地方残部の地図成る。
第九次伊豆七島測量する。
4月、部下を派して伊豆地方を測らせた測量派出隊は下田街道、伊豆七島伊豆東海岸等を実測して熱海に越年する。
4月、二男敬慎を放逐(ほうちく)する。
1816 文化13年 72 忠敬は孫忠(ただ)誨(のり)を伴って時々測量に出る。
測量派出隊は箱根芦ノ湖、富士裾、相模武蔵の諸街道、荒川筋等を測り、
4月江戸帰す。第九次測量終了する。
江戸府内第二次測量する。
閏8月8日より10月23日に亘り江戸府内を細測する。
この頃、伊豆七島等の地図成る。
「大日本沿海輿地全図」の作成に取り掛かる。
この頃佛国暦象編斥妄を著す。

アルゼンチン独立宣言。
1817 文化14年 73 9月江戸府内地図が成り上呈す。
「大日本沿海輿地全図」の作成を続けるが体力衰える。
1818 文政元年 74 4月13日(太陽暦では5月17日)八丁堀亀島町の宅に忠敬没す
喪を秘して発せず。
浅草源空寺高橋至時の墓側に葬る。
6月景敬の妻、りて没す。年35。
11月次孫銕之助没す。年9。

フランスの地形図完成。
1821 文政4年 没後
3
忠敬の友人久保木清淵をはじめ天文方の下役、門弟達の協力により大日本沿海輿全図および輿地実測録完成し上呈す
9月4日、伊能忠敬の喪を発す。
幕府忠敬の功を追賞して嫡孫忠誨に五人扶持及び町屋敷を給し且つ永代佩刀を許可する。
1822 文政5年 4 長女イネ(妙薫)が亡くなる。
1823 文政6年 5 浅草源空寺に忠敬の墓碑が建立される。
1824 文政7年 6 シーボルト鳴滝塾を開設
1825 文政8年 7 外国船打払令
1826 文政9年 8 最上徳内、シーボルトに会う。交流深まる。
1827 文政10年 9 孫忠誨が亡くなる。(21歳)
1828 文政11年 10 シーボルト事件発覚:シーボルトが高橋景保から伊能特別図多数を持ち出す。
水野忠邦 西の丸老中になる。
1829 文政12年 11 高橋景保が獄中で亡くなる。シーボルト国外追放される
1830 天保元年 12 吉田松陰生まれる
1833 天保4年) 15 天保の大飢饉。
1834 天保5年 16 シーボルトが伊能小図の写しをクルーゼンステルンに送って意見を求めたところ、日本の天文測量技術は非常に優れていると高く評価される。水野忠邦 本丸老中になる。
1836 天保7年 18 最上徳内 82歳で没す。
1837 天保8年 19 大塩平八郎の乱。
1841 天保12年 23 水野忠邦 天保の改革。
1844 天保15年 26 オランダ国王、幕府に開国勧告をする。幕府はこれを謝絶する。
1846 天保17年 28 ビッテル通商をもとめ浦賀へ入港。
1853 嘉永 6年 35 ペリー浦賀に来航。
1854 安政元年 36 日米和親通商条約調印、安政の大獄。
1859 安政6年 41 吉田松陰 処刑される。
1860 安政7年 42 井伊直弼暗殺される
1861 文久元年 43 アクテオン号を主艦とするイギリス海軍の測量艦隊が来日し、沿海測量と側深を行った際、取締りのため乗り込んだ幕府役人が持ち込んだ伊能小図を艦長が見て調べたところ、正確な地図である.ことを知り、
改めて幕府と交渉して同図を譲り受け、沿岸測量はやめて、主要地点の経緯度の観測と側深だけを実施して帰った。
1863 文久三年 45 イギリス海軍水路部で「日本政府の地図から編集」と明記して「日本近海の海図No.2347」を大改訂した。これはイギリス海軍が入手した伊能小図にもとづいたもので、これ以降、諸外国製の日本地図が見違える程正確なものになった。この伊能小図は、現在英国海軍水路部に所有されており、一九九八年、江戸東京博物館で開催される「伊能忠敬展」に、はじめて里帰りし、展示される。
1867 慶応三年 49 幕府開成所が、伊能小図をもととした「官板実測日本地図」(木版刷り)を発行する。 大政奉還
1868 明治元年 50 明治維新始まる。戊辰戦争、五箇条のご正門
1870 明治3年 52 大学南校が、「官板実測日本地図」(改版) と 「大日本沿海実測緑」を発行する。
1871 明治4年 53 伊能特別小図の近代版「大日本地図」(川上寛編。ケバ式で表現し、国界山地、水系など伊能図の空白を補ったもの)が発行される。
1872 明治5年 54 伊能家より測量司に地図類を貸与する。(世田谷伊能家所蔵最新資料)
1873(明治6年)55年5月、
皇居の炎上によって太政官内の地誌課に保管されていた伊能図全部が失われ
1874 明治7年 56 伊能家(伊能源六)から伊能図の控図(副本)を献納される。
「実測図献納ニ付賞金下賜」参百円。明治7年8月23日新治(にいはり)県(世田谷伊能家所蔵最新資料)

1884 明治17年 66 陸軍参謀本部測量局は、民間用として伊能図などを資料とする「輯製二〇万分之一図」を作りはじめ、明治二十六年に完成する。この図は、三角測量による帝国図に逐次置き換えられたが、最後に姿を消したのは屋久島で一九二九(昭和四)年だった。伊能図は部分的ではあるが、上呈後一〇八年生きていたことになる。
1889 明治22年 71 東京市芝区芝公園内に贈正四位伊能忠敬測地遺功表が建設される
1919 大正8年 101 佐原町諏訪公園内に伊能忠敬の銅像が佐原町により建設される。
1923 大正12年 105 関東大震災による東京帝国大学図書館の火災によって、政府から保管を委託されていた伊能図副本はすべて焼失したという
1930 昭和5年 112 佐原の伊能忠敬旧宅が国の史跡に指定される
1936 昭和11年 118 片貝町(現在の九十九里町)小関に伊能忠敬先生出生之碑が建設される。
1957 昭和32年 139 伊能忠敬の遺品等が国の重要文化財に指定される。 函館山に伊能忠敬測量記念「銅版レリーフ」が建てられた。
1961 昭和36年 143 国費と県費の補助を受け伊能忠敬記念館が落成。伊能康之助氏から遺書、遺品の寄贈を受け佐原市が旧宅を買収。一般公開されることになる。
1965 昭和40年 147 東京都芝区芝公園内に「伊能忠敬測地遺功表」が再建される。
1968 昭和43年 150 佐原市で伊能忠敬翁150年祭が行われる。
江東区教育委員会により「伊能忠敬住居跡」の石標が建てられる。
1995 平成7年 177 フランスで伊能中図が保存されていることが確認される。
1997 平成9年 179 気象庁で伊能大図写本43枚が発見される。
1998 平成10年 180 東京都立中央図書館で伊能小図本州東部が発見される。
2001 平成13年 183 アメリカ議会図書館で伊能大図写本207枚発見される。
2004 平成16年 186 海上保安庁で未発見大図四枚の模写が発見される。
2010 平成22年 192 伊能忠敬関連資料(2345点の資料郡)が国宝に指定される。6/29

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