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伊能忠敬銚子測量の検証
Ver-20170222

銚子測量は:いつ・メンバー・止宿 富士山の方位測量に拘る 国土地理院地図と伊能図を比較検証
富士山の方位測量を検証 富士山方位測量地の犬若岬今昔 銚子測量記念碑建立しました!



伊能忠敬銚子測量記念碑夕景


(銚子市潮見町町マリーナ海水浴場海岸)
前方は屏風ケ浦:高さ50m長さ10㎞ほど続く海食崖で東洋のド-バ-と言われる景勝地です
屏風ケ浦は国の名勝と天然記念物に指定されています




伊能忠敬による銚子測量は第2次測量の時です

2次伊能測量は年5月~1802年1月(享和元年4月~12月)
測量日数:230日、私費負担:60余両
銚子滞在(1801年8月26日~9月4日)旧暦(7月18日~27日)9泊10日
参加メンバー: 伊能忠敬、平山郡蔵、平山宗平、尾形敬助、伊能秀蔵、助手として嘉助

2次測量は5月14日、江戸湾(東京湾)の西縁より測量を開始し、三浦半島・伊豆半島を東岸から一周し、沼津に出て東海道を通り、7月16日一旦、江戸に戻りました。江戸で、ここまでのデータの検討や天体観測を行いました。
幕府天文方は伊能忠敬に細かい指示を与えたと推測できます。7月29日に再び江戸湾の東縁より測量を開始し、木更津、州崎(館山市)、勝浦、九十九里海岸を経て下永井村(現旭市)に至りました。上永井村から海岸を離れ、小濱村(ここより銚子市)、三崎村等を通り、
8月26日、飯沼村東町田中玄蕃(注)の新宅田中吉之丞宅に着きました。
田中吉之丞宅は玄蕃宅(本家)と近いが、天体観測のしやすさで吉之丞宅になったと考えられます。(下図参照)止宿裏の小高い台地は玄蕃山と呼ばれ天体観測には絶好の地点です。
到着の日より、佐原から伊能三郎右衛門(忠敬の長男)、伊能平右衛門、伊能七左衛門、清宮亀太郎、久保木太郎右衛門(清淵)等親類縁者が船で訪れました。寝食を共にし歓談に花が咲いたことでしょう。この時、銚子は忠敬の「ふるさと」となったのです。長期滞在となった吉之丞宅で測量結果の検討がされました。久保木清淵に武蔵・相模・伊豆・上総・下総・房州の下図作成を依頼しています。
(注)
田中玄蕃:
下総国飯沼村の豪農、干鰯・醤油醸造で巨富を得て士分待遇を 受けた。江戸から明治にかけての豪商。
久保木清淵:17才若年ながら忠敬の漢学の師、伊能測量の協力者で忠敬没後も大日本沿海與地全図完成に尽力。

 


筑波大学地理調査報告8号P36に加筆         (明治20年頃の飯沼村)
止宿(田中吉之丞宅)、天体観測:台地、点線は現在の県道とほぼ推定。
佐原からの客は玄蕃河岸◎から玄蕃坂を登り止宿に着いたと思われる。

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忠敬は富士山の方位測量に拘りました 

(地理的に絶好の位置にある銚子)
伊能測量の基本は導線法と交会法です。導線法による累積誤差を交会法と天体観測で補正しました。各地から観測できる富士山は補正に役立つ山です。銚子は 富士山から200㎞弱離れた東端の地で、富士山・筑波山・日光の山々をも観測できる絶好の位置にあります。 






富士山・江戸・館山・銚子・筑波山を
結ぶ三角形



銚子マリーナの夕日と富士山
第一次測量
◎第1次測量は蝦夷地を除くと、南北方向の移動が主になっています。
主な目的は、「
地球の大きさを知ること」であった。子午線1度の長さの実測が出来れば地球の大きさを求めることが出来ます。(360倍で円周が分る)
当時、日本人として実測した者はいませんでした。25里、30里、32里等諸説紛々の状態でした。(注)1里=4㎞
忠敬は深川黒江町の住宅と浅草歴局とは1分半の差があることを確かめ、略1度の長さを推定しましたが、このような短距離では誤差が大きいことを高橋至時先生に指摘されていました。江戸よりはるかに遠い蝦夷地に出かけ確かな数値を求めたかった。
  
第二次測量
◎第2次測量からは沿海部測量し、日本列島の地図つくりが主目的になりました。そのため第2次測量の初期段階で測量システムの検証が必要になりました。
忠敬は銚子で伊能測量システムの検証を試みたと推測されます。銚子は単なる通過点としての測量ではありません。第2次測量の初めで、東京湾の西縁より三浦半島・伊豆半島を測量して一旦江戸に戻っています。(約2週間滞在)
忠敬らは幕府天文方高橋至時らと綿密な検討をして、指示を仰いだ上で東京湾の東縁より測量を再開し、房総半島を経て銚子に来ました。この間の百日余で、江戸を中心として東西190㎞、南北120㎞の範囲を測量して銚子にやって来たことになります。
伊能忠敬は、銚子から富士山の方位を測量することで、伊能測量システム全体の検証を試みたと考えられます。(当然、高橋至時の指示があったと思われます)
忠敬は到着の翌日より富士山の方位測量をするため手分けして待ちました。洋上に浮かぶ富士山は、快晴でも靄の為見えにくい。朝か夕方が良い。忠敬らは銚子半島を測量しながら方位測量のチャンスを窺いました。
待つこと9日目になって叶いました。(1801年9月3日)測量日誌に、「・・犬若岬に慶助富士山を測る・・・その悦知るへし・・」と記しています。伊能忠敬の喜びと結果に対する満足がわかります。
方位測量の為、このように長期滞在した例はありません。忠敬が銚子での富士山の方位測量を如何に重視したかがわかります。
伊能図の富士山からは、四方八方に40本ほどの方位線が描かれています。その内の1本は銚子です。

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伊能図と国土地理院地図を比較検証しました
 

 
 
  (1)基準点について(迅速測図、図(A)、図①、参照)
  
 
 
  図中のA~H点は伊能図測線上の点で国土地理院地図上に場所を特定できる点です。屈曲点Aは小濱町西安寺付近、Bは三崎町ミヤスズ付近、いずれも地形的に特定出来る場所です。C点は止宿の飯沼村東町、田中吉之丞宅(図⑤参照)で、D~Iは岬等の突端部です。A―B間は、図A、図①上で、ほぼ直線で地図上で方向が合っています。高低差も比較的少なく距離も4㎞弱あります。
方角が合っていなかったり距離が短いと誤差が大きくなります。A-B間は図中で基準とするのに最適です。
図①、図②は屈曲点A、Bを基準として、国土地理院地図に伊能図測線を重ね合わせたものです。
☆重ね合わせに際し、測線A~Cの縮尺はC~I に比して大縮尺になっています。(重なり具合を重視しました)
 
 
 
   

明治17年 迅速測図: 小濱村に加筆
忠敬らは屏風ケ浦の断崖絶壁を避け旧千葉-銚子街道を歩きました。現在国道126号の完成によりA-B間は
直線道路で繋がっていません。屈曲点A、Bは確認することが出来ます。




-- 図A(伊能大図58号部分:銚子半島に加筆)国立国会図書館蔵 --







-- 図① 国土地理院銚子半島地図に伊能図測線等合せ図--



-- 図② 国土地理院銚子半島地図に伊能図測線等合せ図拡大 --

 
(2)九十九里方面から止宿までの測線について
  
 
   迅速測図参照、下永井村(旭市)から10㎞ほど続く海岸線は屏風ケ浦と呼ばれる断崖絶壁で、陸地部分も浸食により、深く複雑な谷津地を形成していいます。忠敬らは海岸線より4百から7百メートル内陸を、上永井村(旭市)・小濱村A点(ここより銚子市)を通り、現国道126号に出て、これに沿って三崎村(B点)、辺田村、ここより国道を離れ現銚子駅舎東寄りを通り、銚子港を経て飯沼村東町の止宿に着きました。
検証結果:
図A、図①、図②参照--(A~C点まで国土地理院地図に、ほぼ合致しました)
 
 
(3)犬若から開始された銚子半島の測線について

 
 
  銚子半島の測量は富士山の方位測量を優先したためか、犬若から反時計回りに開始しました。 測線の繋がりを求めるなら止宿から時計回りの測量が普通です。
図①A~B点を基準として固定した場合,
検証結果:
伊能図の測線(青点線)は東南東方向に4~500メートルズレています。また、図Aの止宿C点や天体観測点☆の位置関係が実際より利根川に近く、また、西側によっています。
---27日~31日測量の測線を個別に検証する。---
犬若から開始された測量は前日までの測線と繋がりがないので、犬若(27日)を起点とした別測量と考えれば個別に検証できます。図②参照、27日~31日測量の測線(青点線)を方角・縮尺は変えず、岬等の突起部を基準として西北西方向に平行移動し国土地理院地図上に合わせて検証しました。
個別検証の結果:
個別検証の測線(仮説により補正された測線:赤点線)は国土地理院地図に合致しています。(埋め立て地部分、河口の掘削を考慮)測量日誌の31日の記録に「今宮村川岸渡場先ニ至テ止」とありますが、図②川沿いの測線(青点線)は今宮村川岸渡場まで届いていません。しかし、個別検証の測線(赤点線)は今宮村(現銚子大橋付近)まで伸びていて、測量日誌の記録とも一致しています。
 
 
 
(4)測線のズレ等の矛盾を解決する仮説
 
  ①飯岡方面から小濱A・三崎B・止宿Cまでの測線は国土地理院地図にほぼ合致しています。
②犬若岬からの27日~31日実施の測量を個別検証すると、国土地理院地図に、ほぼ合致します。(図①赤点線) A点、B点の基準設定が正しいとすれば、①、②の結果から、図①測線(青点線)のズレは測線接続に問題があったと考えられます。
仮説---( 図②Y点に接続の青点線上のO点はX点に接続すべきであった )
  仮説によれば図①のA―B点を基準とした場合、銚子半島はX―Y相当分だけ東南東方向にズレることがわかります。  D~H点の海岸線を基準とした場合は、図②の測線(26日)は赤二重線のようにX―Y相当分だけ西北西方向にズレます。 いずれの場合も銚子半島の形状は保たれ、ズレは全体の中で補正され吸収されたと推測できます。
 
   
(5)仮説の検証(仮説は、ほぼ正しい)

 
 


白地図上に、伊能図測線・輪郭線
を銚子半島東海岸部を基準に重ね
合わせたものです。図のように
銚子半島の形状は保たれています。
赤線:伊能図測線
黒線:伊能図輪郭

補正作業がどのように行われたか
大変興味が持たれます。

仮説に従い図②青点線上の点OをX点に接続すると

① 銚子半島全体で国土地理院地図に輪郭と測線がほぼ合致します。
② 旭飯岡方面からの測線に無理なく繋がります。
③ 止宿や天体観測点☆の位置関係が実際と符合します。(図⑤参)
④ 測量日誌の記録と齟齬がありません。

測線接続ミスの要因推測

① 止宿近くの神社を迂回していると推測される測線(図②☆~Y点)は、26日測量の測線の終端(Y点)としてあった。
② Yにつながる緑点線は27日、黒生海岸から帰宿した際、また、翌28日宿より 黒生に向かう際、使用した道と推定。
③ 28日黒生から飯貝根・和田を測量して帰宿した際、また、31日今宮方面の測量に向かう際、測線の繋がりを求めてY点を通った可能性がある。
結論
①、②、③等を考慮すると、この辺りのデータが錯綜しており、地元を離れた後の下図作成で単純ミスにつながったと推測できます。遠因として、測線の繋がりを求めず犬若から測量したこと。閉ループとなる三崎B~犬若I間の測量がなされていないことが挙げられます。
 
 
 

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 富士山の方位測量を検証しました 

 

図③ 伊能図と国土地理院地図の合わせ図




図④ 岬拡大図  赤:測線、×:推定観測点




犬若岬台地より千騎ヶ岩を望む
 
(1)伊能隊の測量地点(犬若岬)の推定


前述の仮説に基ずく補正後の測線を現在の地図に落とすと、伊能図の測線は岬の付け根あたりで止まっており突端まで伸びていません。


(図③、図④参照)岬には犬若山と呼ばれる台地があり、台地に登らない限り、観測不可能な死角が生じます。死角を避けると岬から離れた場所となり、測量日誌の「・・犬若岬に・・」や「・・日々手分けして高きに登り・・」の記述と違和感を生じる結果となります。以上の結果から、現地調査も踏まえ、測線の延長上である台地の+点(図④)を観測地点と推定しました。



伊能隊富士山測量地点は犬若岬の台地
台地は地元で「本家の台(ほんけのでー)」と呼ばれている
何人かに聞いた中で「富士見台」という呼び名もあった。


推定地点(図④+位置)
(国土地理院ポータルサイトもGPSもほぼ同値)
緯度  35度41分51.75秒
経度 140度50分48・30秒
磁北線  6.7度
 
 




(2)犬若岬台地(観測地点)からの富士山  

 
  
画像クリックで富士山部分の拡大画像が見られます
左の写真は犬若岬の台地から撮影した。夕景(日没後)である。肉眼でもほぼ同形にみえる。
  忠敬の頃に比べ犬若岬の外観は大きく変わったが台地からの眺めは同じであろう。
 (手前の黒く伸びた防波堤は最近作られたもの)

 

  

 
 
 (3)富士山観測点の推測と緯度・経度

 
 
伊能大図(富士山部分)
国会図書館蔵



銚子から富士山頂付近の形状を正確に
確認できないが剣ケ峯を観測点とした。





1800年あたりで偏角は0度
1800年以降では西偏である。
現在の銚子の偏角は6.7度
 電子国土ポータルサイトを用いて、地図上に犬若岬の測量地点と富士山の対象地点を指定し、二点の緯度経度から富士山の方位角を導き、伊能測量隊の値と単純比較を試みました

(富士山頂)推定地点  左図剣ヶ峯 +位置
緯度  35度21分38・50秒: 経度 138度43分38・75秒

犬若岬より見た富士山の方位計算
二点の緯度・経度より方位を計算プログラムで求めました。
計算結果(犬若岬→富士山) 方位角
  
259度36分31・51秒 測地線長 195・8㎞ の値を得ました

伊能忠敬隊の測量値との単純比較
伊能隊の測量値
① 申19分25秒は 259度25分相当: (中方位盤使用)
② 申19分  0秒は 259度 0分相当:(甲方位盤使用)
(注)360度を12支に分割表現するので1支は30度になります。
申は子から数えて8番目。申は30×8で240度に相当。1支(30度)を30分割して1分と表現されています。(1分は1度相当)従って19分25秒は19度25分になります。
①の場合、計算値に対する差は11・5分
②の場合、計算値に対する差は36・5分

測量地点の検証は意味あることですが、銚子・富士山間は200㎞弱離れており、方位線に対し直角方向に57メートル移動したとして方位角換算で1分程度です。当時の測量機器の誤差を考えると、犬若岬内の何処で測量したとしても誤差範囲内になります。
伊能測量の時代の偏角は江戸では0に近く、方位磁石はほぼ真北を指していたと云われています。結果から、それが正しいことがわかります。
伊能測量の精度を正確に検証するには測量当時のその場所での正確な偏角を知る必要があります。
伊能隊の測量機器の副尺は対角線法と呼ばれるものでバーニア副尺より劣りますが、機器誤差は千分の1台と推測できます。伊能隊のデータから偏角を求めるほうが他資料から求めるより、正確で理にかなっているとおもわれます。
忠敬が偏角の認識をどの程度持っていたか不明ですが、磁石が真北を指さないのは磁石の精度の問題として、精度の高い方位磁石の製作に拘りました
 
 

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 (4)犬若岬(伊能隊富士山観測地)周辺の今昔

 
六十余州名所図絵 下総銚子の濱 外浦


六十余州名所図絵 下総銚子の濱 外浦: 初代 歌川広重 作
船橋市西図書館 所蔵
    日本全国の名所を浮世絵木版画69枚にまとめた連作で「下総銚子の濱外浦」はその1枚である。
 1853(嘉永6)年~1856(安政3)年の作
 
   外浦とは現銚子市外川のことで、絵図手前の砂浜は外川の浜である。現在、外川漁港として整備され砂浜はほとんど残っていない。 浮世絵は縦方向に強調表現されており写実というよりイメージを重視している。そのため写真との比較は難しいが当時の情景はよく伝わってくる。 右手の断崖は屏風ケ浦で先端は刑部岬(現旭市)である。帆船の浮かぶ名洗いの海は遠浅で穏やかな海に描かれている。左手の岩は千騎ヶ岩(せんがいわ)とある。絵図右下の岩礁は位置関係から犬若岬に続く岩礁であろう。手前の砂浜には磯巡り観光客が、波間の小船にも見物客らしき人物が描かれている。 上部中央付近には富士山がしっかりと描かれていて、その方向もほぼ正確である。富士山方向は忠敬の出生地(九十九里町)で富士山の右手の山並みは丹沢方面、左手は勝浦(外房)方面になる。 背景の空が茜色に染まっているのでおそらく夕景をイメージしていると思われる。その場合、シルエットとして山は黒っぽく見えるのだが、白で象徴的に描いている。 海の色、漁船、見物の船影や海岸の人影から実際は穏やかな日中を描いたと思われる。  
 
 幕末

銚子浦犬若嶋千騎岩之図:利根川図志:赤松宗旦:銚子公正市民館蔵

   左手大岩が千騎ケ岩、右手の台地が犬若岬です。立派ながあります。台地の奥には家屋が描かれている。歩いて登る人影が見える。
赤松宗旦 (あかまつそうたん)文化3年~文久2年(1806~1862)、江戸時代後期の医師、地誌学者。
下総相馬郡布川村(茨城県利根町)、父初代宗旦の志をついで「利根川図志」を完成。ほかに「銚子日記」
『利根川図志』は流域の社寺名所旧跡を書いている。挿絵も多い。
 

幕末か?

外川浦犬若の図に加筆 (圓福寺所蔵)
銚子磯巡りの名所
  この絵図はつずら折になっており圓福寺観音図、伊貝根浦川口之図、目戸ケ鼻日出之図、目戸ケ鼻裏見図、黒生鳶石之図、海鹿島之図、石切之図(犬吠)、長崎之図、外川浦犬若之図、本城雪之図)の10枚からなる。
製作年は不明だが10枚の図の風景から幕末のころと推測される。岩や岬などは縦方向に誇張が見られる。中央の大岩は千騎ケ岩である。その右に犬若岬が描かれており台地には立派な家がある。その先遠方洋上に富士山が白く大きくかかれている。沖合に帆船も見える。右側には僅かながら屏風ケ浦が描かれている。
手前の外川の海は波荒く海岸には大勢の観光客が描かれていて拡大すると犬若岬の台地の両端まで続いている。
富士山見物のためである。当時、犬若岬の台地が富士見の名所であったことが窺える。今、地元では「本家の台(ほんけのでい)」と呼んでいるが、昔「富士見台と言った」とも聞いた。
 
 

幕末

利根川図志:銚子名洗濱之図 赤松宗旦著、銚子公正市民館蔵

   手前の名洗集落に続く屏風ケ浦の先に富士山が描かれている。
名洗海岸から富士山は見えないが犬若から名洗に向かう山道から名洗集落と富士山を見ることができる。
図は富士山の位置関係も含めて、ほぼ正確である。
 

幕末

犬若から長崎方面の鳥瞰図 宮負定雄著:銚子公正市民館蔵

   右が犬若岬、中央の岩が千騎ケ岩、上部の伸びた岬は長崎である。左の民家は外川の集落である。

注) 宮負定雄(みやおいやすお)  
寛政9年~安政5年 (1797~1858) 江戸時代の国学者。通称 佐平。
雅号 亀齢道人下総国香取郡松沢村(旭市)の世襲名主宮負佐五兵衛定賢の長男。
定雄は二九歳で平田塾に入門。三十歳のときに「農業要集」を平田塾より出版。
 
 
 
大正2年

石井柏亭画:銚子市犬若岬(伊能忠敬隊富士山測量の地)越川氏所蔵 
  石井柏亭著:「行旅」によると銚子へは九度も来ていますが、犬若は大正2年春、太平洋畫会の人達と畫を描く目的ではじめて犬若へ行ったと記しています。 絵は写実的で伊能忠敬測量隊が富士山の方位測量をした台地に昇る立派な道が描かれている。台地の左手に倉が、右手に大きな母屋が、台地下の右手奥に犬岩が描かれている。その前は船溜まりに見える。
 台地の右側には地質むき出しの赤茶けた絶壁が象徴的に描かれている。この崖はかつて犬若岬から刑部岬(旭市)まで連続して繋がる海食崖(屏風ケ浦)であった。現在、海食がさらに進んだ結果、崖は名洗・犬若地区の一部で消滅している。
 銚子測量(1801年)以降にも何度も地震、津波があった。絵から海食が進行中なのが分かる。
 絵中の手前の遠浅の海は大正・昭和時代、海水浴場として賑わっていた。今は、犬岩前から船溜まり、崖下、砂浜まで埋め立てられ(下図
黄色部分)犬若港やマリーナができていて昔の面影は全くない。 
 

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国土地理院:ウォッちず「銚子部分」に加筆

現在の犬若岬


   台地には建物等の構造物はない。石井柏亭画などに見られる台地への立派な道もない。台地へは民家裏の細い小道を登るしかない。柏亭画に見られる絶壁は崩れ落ち台地全体が植物で覆われている。これは、周囲が埋め立てられたため海食が止まったためであろう。柏亭画に見られる美しい景観は一変している。唯一、犬岩だけが昔の姿を残している。

(注)犬若の象徴犬岩は千葉県で最も古い一億五千年前の中生代ジュラ紀の地質持っている。また、犬岩は義経の愛犬に纏わる伝説の岩でもある。
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海水面が今より高かった時代、犬若岬は島であったであろうか。
 現在の犬若岬は人工的に何もしていなければ外川の海岸方向に浸食が進み犬若島を形成するように見えるが、逆に島であった犬若島が犬若島自身や千騎ケ岩が突堤となって砂が付き、再度陸地に繋がり現在の犬若岬になったようにも見える。
 前出の赤松宗旦:利根川図志では「銚子浦犬若
千騎岩之図」となっているのが面白い。
 吉田初三郎画の二つの鳥瞰図(次ページ)の犬若部分図も島を連想させる描き方になっている。
 

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伊能大図58号「銚子半島部分」に迅速測図の海岸線(青点線)を加筆

  下総名勝図絵二点の犬若岬はかなり大きく描かれている。   
   伊能大図「銚子部分」(上)における犬若岬は国土地理院地図や明治十七年の迅速測図の海岸線(上図青点線)と比較すると、なり大きく描かれているのが分かる。 伊能大図「銚子部分」では岩礁まで描いたと推定してもかなり大きい。
伊能測量隊は岬の回りや屏風ケ浦方面は測量していない。未測部分は目測や地元での聞き取りを下にしてスケッチした思われる。銚子半島の伊能図で見る限り、実測していない岬周辺や岩礁は大きく描いている。 当時、銚子は磯巡り観光で知られており、それぞれの岬は観光地であった。強く意識された岬等は大きく描いたのだろうか。しかし、それらを考慮しても忠敬時代の犬若岬は現在想像するよりかなり大きかったのかも知れない。

犬若岬を犬若山と記述している文面があった
果たして台地を単に山と呼んだのであろうか。 下総名勝図絵の二点(前々頁)の犬若岬は山を連想させる描き方である。
硬い岩盤上に堆積した地層の犬若岬は海食の過程で一時、山状になったこととがなかったであろうか。山が更なる海食により石井柏亭画に見られる断崖となり、岩礁を海に残したとも想像できる。学問的に解明されることを期待したい。
 下総名勝図絵は地元での聞き取りや残された岩礁からイメージされた絵であろう。
 
 

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吉田初三郎画
「大銚子遊覧鳥瞰図絵」東半部分(下図) 大正11年

吉田初三郎画:大銚子鳥瞰図絵より東半部分、中央上部に犬若岬と富士山が描かれている

  吉田初三郎は、 大正11年に「大銚子遊覧鳥 瞰図絵」を描いている。 この絵には明治三三年開通の総武線と現銚子電気鉄道が描かれている。 昭和8年開通の佐松線(現成田線)はない。大正期に描かれた「大銚子遊覧鳥瞰図絵」の 犬若岬は全体的に大きく、台地は二段になっていている。 台地前方には富士山が描かれている。褐色の崖は少なく側面は緑で覆われている。  

昭和10年代初頭?

吉田 初三郎画:銚子市鳥瞰図より犬若部分拡大図

   昭和期に書かれた「銚子市鳥瞰図」の全体図には現成田線が描かれているので昭和10年代初頭と推定出来る。
大正期に描かれた鳥瞰図と比較すると、北側の崖(絵右側)には緑がほとんどない。大正期より海食がさらに進行した結果であろう。 鳥瞰図は大正、昭和期とも富士山が描かれており、台地に向う立派な道がある。絵を拡大して見ると台地には石垣が回っており建物らしきものがある。富士見のポイントであったことが分る。二つの鳥瞰図とも犬若岬が、かつて島であったかのような描き方になっているのが興味深い。図中の犬岩の形もおもしろい。 吉田初三郎:1884~1955年 大正から昭和にかけて活躍した鳥瞰図絵師。
 
 
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伊能忠敬銚子銚子測量記念碑が建立しました

ちゅうけいSUN(香取市)、ジオッチョ(銚子市)も参加
 
 

除幕式記念写真 2013/11


中央の碑文と地図は陶板で嵌めこまれています


記念碑裏にカメラ設置
 
 
  犬若岬の犬岩(銚子市HPより)
中生代ジュラ紀の付加体。千葉県で一番古い。


君ケ浜海岸から犬吠埼を望む
国指定天然記念物:白亜紀浅海堆積物
中生代白亜紀前期の地層。
 犬吠埼灯台:1874年に点灯。地上高31m。



地球が丸く見える丘展望館
東総地域で一番の高所。360度のパノラマ。


国土地理院の一等三角点がある

建立意義

富士山の方位測量地点犬若岬は伊能忠敬銚子測量の象徴的場所です。
犬岩に代表されるこの地は義経伝説の地として知られています。(注)
碑設置場所は
屏風ヶ浦と呼ばれる景勝地で地質学的に興味深い場所です。
犬若も屏風ケ浦も「銚子ジオパーク」のジオサイトです。
建立された「伊能忠敬銚子測量記念碑」は
銚子ジオパークの大切な文化遺産になりました。

銚子における伊能測量隊の測量の道筋は銚子ジオパークのジオサイトと重なります。銚子の恵まれた自然遺産や文化遺産が児童生徒の学習の場として、生涯学習の場として、観光資源として地域の活性化に大いに役立つことが期待されます。
(注)義経の愛犬が主君を慕って7日7晩吠え続け8日目の朝、犬岩になったといわれる。(犬吠なども義経伝説に由来しています)

 

屏風ヶ浦: 東洋のドーバーといわれる景勝地。

銚子市名洗町から旭市刑部岬まで続く長さ10㎞、高さ50mもある断崖(海食崖)。景観は壮観で名勝と天然記念物に指定されています。
現在浸食防止のテトラポットが敷きつめられ、その上をコンクリート舗装していますが、旭市よりは波力により破壊されている所も多い。
断崖の地層は犬吠層群とよばれる300~40万年前に深い海底で堆積した地層に、10万年前頃に浅い海で堆積した地層が、さらにその上に陸上で堆積した関東ローム層がのっています。

 

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