このサブウィンドウを閉じる


清左衛門濱宅の由来 
清左衛門濱宅の祖 
旧高田村新川船入場創築由来記に、「高田村10世清右衛門定賢(正壽)大志ありて力を公益に致す長沼手賀沼印旛沼三沼の開拓の志し、後室八重子の父侍医坂輪玄瑞を介し老中田沼意次公に請うて先ず長沼開墾に着手し巨資を投入するも事業容易ならざるに田沼失脚により宿志果さずして長男定膂に清右衛門職を譲り、名を清左衛門と改め濱宅と称した」(中略)とあります。(干拓に関する資料は残っていませんが当主交代は家を守る為で資料もその際破棄したと思われれます)  
定賢(正壽)は10世清右衛門にして、清左衛門濱宅の祖(隠居分家)となりました。1786年(天明6年)頃か。 

清左衛門による船入り場救助普請 
(中略) 「この時天明の飢饉に遭遇し清左衛門、本村に碇泊所なきを患となしたがこの機に意を決し救助普請を起こし以て窮民を賑恤する」(以下略)。名主としての公的仕事は清右衛門(長男)が行い、港作りのような大きな事業は父である清左衛門が行っていたと思われます。清左衛門(正壽)は長男定膂より少し長生きしました。 
清左衛門濱宅絶える 
10世定賢(正壽)の長男正諄は11世清右衛門を継ぎ、姉ウタは潮来宮本平太夫に嫁したが子なく、3男高重が宮本家に婿入し10代宮本平右衛門高重となりました。(考証学者宮本茶村は高重の2子)。次男三九郎は家を分け仲宅と称したが絶えました。
定賢(正壽)の後室八重子の子「定露」が清左衛門濱宅を継ぎましたが子なく一次絶えました。 
清左衛門濱宅の再興 
12世清右衛門胤繁(正諄)の長男定彦は江戸に出て昌平黌の塩谷宕陰に学び近未来坤興年表を編述、後に高田村に戻りました。2男俊二は鈴木春山に蘭学を学ぶも20歳の若さで病死しました。3男秀三は家業を継ぐべく専念するも、長男定彦が戻り清右衛門十三世を継いだため、分産創業し一時絶えた濱宅を継ぎ清左衛門濱宅を再興し、廻船・酒造・金融などの事業を行いました。(地元古老の証言に昔「宮清が2軒あった」と言っているのは清右衛門と清左衛門このことです)
明治の新政府下で清右衛門(定彦)が新治県の副区長、区長を務めました。その時、秀三は高田村の戸長を務め、とくに地租改定では秀三の長男克太郎(注)と共に尽力しました。漢詩を能し号は友鴎。克太郎の代で火災や酒造の失敗などが原因で高田での事業を諦め、東京で金融業、漁業などの事業を行いましたが明治10年代ですべて止めています。(注)克太郎の妻は伊能七左衛門の娘多恵で地図作成に対する思い入れは想像に難くありません。