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ご詠歌![]() |
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ほととぎす銚子は国のとっぱづれ
江戸日本橋小網町の俳人・古帳庵が、天保12年(1841)に読んだ句だが、この句碑は圓福寺本坊の庭に建っている。地図をひろげると、銚子は関東地方の最東端に位置し、北は利根川、東南は太平洋に面し、まさに国のとっぱずれである。 |
| 寺伝によれば、本尊の十一面観世音を拾い上げた漁夫・清六と長蔵は後に出家して観清(清六)・音長(長蔵)と称したが、弘仁年間(810〜24)に弘法大師が巡錫したとき、連座を作って開眼し、この地の海上長者と称する豪族が、観世音の慈悲と大師の修法力に心をうたれ財を惜しまずに提供し、壮麗な伽藍を建立して、大師を開祖と仰いだと伝えられ、その後、海上氏一族の庇護によって発展し、天正6年(1578)には八間四方の観音堂が建てられた。 | ![]() |
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そして安永2年(1773)に十間四方の銅葺に改築され、仁王門、鐘楼、多宝塔、太子堂などの大小さまざまな建物がいずれも整備され、戦前までは豪壮な姿を見せていたが、太平洋戦争のためにすべてを焼失したのである。 |
| 観音堂は圓福寺の本堂で、昔は東南200メートル離れた圓福寺本坊までその境内だったというが、今日では商店・映画館・旅館などによって断ち切られ、ここを通り抜け本坊まで行って納経を受けて貰わねばならない。 本坊(納経所)は間口12間・奥行8間の瓦葺で大師堂と称し、客殿庫裡が連なっている。天保水滸伝で知られた侠客銚子の五郎蔵の墓もここにあり、本坊には五郎蔵の倅勝五郎と飯岡の助五郎寄進の大きな銅壺もある。 寺宝としては、重要美術品の「奈良時代銅造鐃」や、享徳在銘の銅鐘、天正墨書銘の戒躰函、貞享年間刺繍大涅槃像図、建武、明徳、文安、天文年間書写の貴重な古文書、「竜神さま」と称される外国船首像などが保存されている。 |
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圓福寺が札所に推挙されたのは、鎌倉幕府に重きをなした東氏や海上氏によって支持されたからといわれる。そして諸国から飯沼観音に巡礼が集まるようになると、今日では26番の清滝寺から土浦、佐原を経ておよそ100キロ、車で2時間30分あまりの行程だが、当時は陸路でも水路でも、巡礼は銚子で一泊を余儀なくされ、さらに28番滑河龍正院へは60キロ近くあり、どうしても宿泊地としなければならなかっただけに、門前町として発展し、今日の銚子繁栄をもたらしたといえる。 |
| 昭和46年には円通殿と称された戦災前の観音堂をしのぐ大観音堂の建立を発願し、仁王門とともに総工費2億円で再建され、あわせて境内も整備された。 その後全国の各霊場を巡拝する有縁の巡礼によって、境内に二十三夜満願堂が建立され、毎月23日の縁日には参詣者で賑わっている。飯沼観音境内にある銚港神社は観世音示現と共に海中より出現の馬脳石がご神体で、明治2年までは「竜蔵権現」と称し、飯沼観音の鎮守であった。 (圓福寺にあった巡礼の会は、昭和55年より、犬吠埼にある、じゅんれいのてら満願寺へ移っている) |
![]() 圓福寺縁起絵巻 |