青木半治杯 中学校対抗銚子半島駅伝の生い立ち

 昭和20年に第二次世界大戦が終り,終戦後の混乱期,衣・食・住すべてが欠乏し,青少年の心身もすさみがちであった昭和24年9月初め,千葉県立銚子商業高等学校旧校舎の会議室に,銚子市内の陸上競技愛好者が招集された。会場には,青木半治氏(当時、東京陸上競技協会理事長・早稲田大学監督、前日本体育協会々長・現日本陸上競技協会会長)佐藤實氏(当時、銚子市陸上競技協会々長・後に千葉県議会議長)石川長次郎氏(当時、銚子市陸上競技協会副会長、後に石川組専務)加瀬義雄氏(当時,銚子市陸上競技協会理事長・現銚子市陸上競技協会副会長)等の方々が臨席されて,『戦後の混乱した世相の中から,せめて青少年にスポーツを通じて何か光明を見い出させ,何事にも全力であたる気構えをつくろうではないか。・・・・』ということが協議の結果全員の一致した意見となる。

 そこで,先ずは中学生を対象としての駅伝大会を銚子市はもとより,近隣の中学校に呼びかけ,運営は主として千葉県立銚子商業高校陸上競技部が中心となり,第一回大会を昭和25年に開催することにする。第一回大会の参加範囲は、銚子市・海上郡・匝瑳郡・香取郡の16校が参加し,品村晃祥先生(現千葉県陸上競技協会理事)の率いる八日市場中学校(現、八日市場市立第二中学校)が2時間26分19秒の記録で優勝する。以後,回を重ねる毎に参加校も増加し,70校を超える関東近県では最大規模の駅伝大会となる。この大会に参加した選手の中には,関東・全国そして,国際大会に出場する選手も生れている。

 コースについても交通事情等で何回もコースを変えながら現在のコースになる。また,円滑な運営を期して,銚子警察署・千葉県警察本部交通機動隊・陸上自衛隊等の支援を受ける。

 讀賣新聞社・大衆日報社・地元の各企業や多くの人々の後援のもと,今では銚子の正月を飾る一大行事になっている。なお第42回大会より,青木半治氏(当時日本体育協会会長)が青少年のためにという事で本大会にカップを寄贈してくれる。